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在家のまま曹洞禅を生きる
曹洞禅の本質をよくわかっている訳ではないが、
私は、曹洞禅に生きる人の姿勢が好きだ。
曹洞宗で出家された皆様は、
とても人間らしく謙虚で、「日々の暮らしが修行」だと言う。
決して特別な修行ではない。
日々を懸命に慎ましく生きることが、即ち修行でもあるのだ、と。
ふと、父の姿、その言動を思い出す。
とても人間らしく謙虚で、日々を修行のように全力で生きてきた。
もちろん失敗も多かった。
山ほどの赤面するような失敗談を、笑い話として聞かせてくれた。
父は生粋の経済人として生きる道を選んだ。
「中小企業の経営」は、父の天職なのだと思う。
多くの人たちに応援されながら、ずっと経営を続けてきた。
社員の皆様と、工事施工をしてくださる職人さん、そしてその家族の生活がかかっている。
常に、そのことを考え、自ら背負って生きる人。
それが私の父。
茶道の家元も、
得度までして出家はせず、在家のまま「おもてなし」の修行に生涯を捧げると聞く。
茶道の場合は、曹洞禅ではなく臨済禅。
臨済宗と言えば、公案とも呼ばれる禅問答。
曹洞宗と言えば、只管打坐、ひたすら坐禅に打ち込む。
しかし、坐禅に限らず日常生活全般を坐禅のようにして生きることを
道元を開祖とする日本の曹洞禅は勧めている。
父の生きかたは、在家のまま曹洞禅を生きる姿そのものだ。
出家していないからこそ隔たりのない温もりがある。
茶道の家元が出家しないのも、目線を同じくしたいからだろう。
いつだったか、
「そのうち、お父様を超えなければいけませんね」
と言われて、
「父を超えることは、私には到底できません」
と答えた記憶がある。
とてもではないが、父のような生きかたを真似することは私には出来ない。
それでも、私は私なりに、私に合った方法で、
「在家のまま懸命に生きる曹洞禅」のような道を模索していきたい。
人間らしく、迷いながらも真剣に。
曹洞宗が仏教の宣伝をするような素振りをするところを一度も見たことがない。
父も、きっと曹洞禅を生きてきたのだろう、と感じる。
曹洞禅を生きる人たちは、修行としての人生を選択し、
ひたすら日々の営みに打ち込むのだ。
私も、私なりに。
多くの皆様に助けて頂きつつ、感謝しながら。
決して諦めない。
泣き言も愚痴も言います。でも、肝心なことは絶対に手放しません。
不動明王が私の中にも息づいていますから。