私の主な関心事
私が小学生中学年(3〜4年生?)の頃だったと思います。
科学雑誌『Newton』の中で、キノコ型の“人工生命”が紹介されていました。
原始的な生命と同じような振る舞いかたをする遺伝的アルゴリズムによるプログラムの進化に成功している、という記事内容でした。
当時、通っていた小学校の図工の先生が大の「フラタタル」好きで、
授業の中で「Yの木」のようなフラクタル的な絵を描いたり、
図工室に貼ってあったエッシャーの「流れ続ける水路」など、さまざまなパターンの錯視の絵を見ながら、
人間の感覚の不思議さと、その世界の深さに魅了されていました。これらの体験は、今でも私の好奇心の中核に原体験として根を張っています。
中学では、私に囲碁の愉しさを教えてくれた数学の先生が、
3年生の時の選択授業の中で「黄金比」「フィボナッチ数列」など、
自然界に散りばめられている様々な規則的形状、
例えば、
オウム貝の巻きかたとサイズ、草の葉の付きかたの規則性などの実例のほか、
日頃よく使っているA4やB5の紙が、長辺方向に何度折り返してもその長方形の短辺と長辺の長さの比率が必ず黄金比になっていること等、
日常の生活と連動している数学の神秘的な世界の入り口に誘ってくださいました
大学1年の時には、「微分積分」の講義を担当していた教授が、講義内で、ある時、
「どんなに正しくても、美しくなければ定理とは呼ばれません」
「数学は言葉です」
と言い放っていたことが強烈に印象に残り、
今でも私の支えになっています。
「数学」「言葉」「美」の概念が、私の中で密接に紐づいた瞬間でした。
囲碁の美しさも、まさに数学的な美しさです。
また日本の棋道では、精神的な美しさ、所作の美しさとも融合して「盤上における無言の激しい対話」が抜き差しならない緊張感の中で日々繰り広げられています。
まさに囲碁ならではの“盤上の言葉”です。
人間は、主に言葉でコミュニケーションを行います。
互いに指一本触れずに、心情の機微についても伝達し合い、時に涙します。
哲学的な対話から、日常生活における世間話まで、
多くのコミュニケーションを言葉で行います。
スプーンの先を曲げるだけの“超能力”よりも、
イスに座って店員さんと短い会話をするだけで
イメージ通りの食べものが目の前に置かれることのほうが、
余程不思議なことだと私には感じられます。