第二オランジュ教会会議の決議文

英訳からの重訳。

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法令1

もし誰かが、[以下のようにする者] であるならば、その者はペラギウスの誤謬に欺かれている。
 アダムの罪という違反によって「より悪しきものへと変化」したのは、全人間、[つまり] 身体と魂の両方、であることを否定する [者]
 魂の自由は無傷なまま、身体だけが腐敗にさらされると信じる [者]。

[その者は、以下のように] 述べる聖句に矛盾している。
 「罪を犯した魂は死ぬ」[エゼキエル 18:20]
 「従順な奴隷として誰かに身をゆだねるなら、あなたがたは従う者の奴隷になることを知らないのか。」[ローマ 6:16]
 「おおよそ人は、征服者の奴隷になるのである」 [2ペテロ2:19]

法令2

もし誰かが、[以下のようにする者] であるなら、[その者は] 神に対して不義を為している。
 アダムの罪は彼だけに影響し、彼の子孫には [影響] しないと主張する者。
あるいは少なくとも
 罪の罰は体の死だけであり、魂の死である罪が一人の人間を通して全人類に及んだのではないと宣言する者。

[その者は、以下のように述べる] 使徒に矛盾する。
 「したがって、一人の人間によって神が世に入り、罪によって死が [入った] 。そのようにすべての人間が罪を犯したので、死はすべての人に広がった」 [ローマ5:12]

法令3

もし誰かが、
 神の恵みは人間の祈りの結果として与えられるが、神に祈らせるのは恵みそのものではない
と言うなら、その者は [以下のように述べる] 預言者イザヤ、あるいは同じことを言う使徒に矛盾する。
「わたしは、わたしを求めない者に見つけられ、わたしを求めない者に姿を見せた」 [ローマ10:20、イザ65:1]。

法令4

もし誰かが、
 神は罪から清められようとする私たちの意志を待っておられる、と主張しながら、
 清められようとする私たちの意志さえも、聖霊の注入と働きによって私たちにもたらされる、と告白しないなら、
彼は、[以下のように述べる] 聖霊ご自身に逆らう。
すなわちソロモンを通した [言葉]
 「意志は主によって整えられる」 [箴言 8:35、七十人訳]、
また使徒の救いの言葉
 「神はあなた方のうちに働いて、その良い目的のために意志し働く」 [フィリピ 2:13]

法令5

信仰の増大だけでなく、その始まりと信仰への欲求そのもの、すなわち、それによって不敬虔な者を義とする方を信じ、聖なる洗礼の再生に至ること、
これが恵みの賜物ではなく、生まれつき私たちに属すると言う者があれば、それは、彼が使徒たちの教えに反対していることの証拠となる。
[恵みの賜物であるとはすなわち、] 聖霊の霊感によって私たちの意志が修正され、不信仰から信仰へ、神無き [状態] から神性へと変わることである。

祝福されたパウロは、以下のように言う。
 「あなた方のうちに良い仕事を始めた方が、イエス・キリストの日にそれを完成すると私は確信している」 [フィリピ 1:6]
そしてまた、
 「あなたがたは、恵みによって、信仰によって救われたのである。これは、あなたがたが自分でやったことではなく、神の賜物である」 [エフェソ 2:8]
というのも、私たちが神を信じる信仰は自然的なものであると述べる人々は、キリストの教会から分離されたすべての人々を、定義上、ある程度は信者であるとしているのである。

法令6

もし誰かが、
 神の恵みと独立に、私たちが信じ、意志し、望み、努力し、労苦し、祈り、見て、研究し、求め、戸を叩くとき、神は私たちをあわれんでくださる、と述べつつも、
 私たちがこれらすべてのすべきことを行う信仰、意志、力を持つことができるのは、私たちの中の聖霊の傾注と霊感によることを告白しないならば、
また、
もし誰かが、
 恵みの助力を、人間の謙遜や従順に拠るものとして、
 私たちが従順で謙遜であること自体が恵みの賜物であること
に同意しないなら、

その人は以下のように述べる使徒と矛盾している。
 「あなたがたは、受けなかったものを何か持っているか」 [1コリント4:7]、  
 「しかし、神の恵みによって、私は[今の]私である」 [1コリ15:10]

法令7

もし、誰かが、
 私たちは、永遠の命の救いに関係して、正しい意見を形成し、正しい選択をすることが、自分たちにとって得策となる [形] で為すことができると主張する、
あるいは、
 すべての人を喜んで真理に同意し信じさせる聖霊の照明と霊感なしに、自分の自然の力によって福音の説教に同意して救われると断言する人
がいるなら、
その人は異端の霊に迷わされている。

[その者は] 福音書の
 「わたしから離れていては、何もできない」 [ヨハネ 15:5]、
また使徒の言葉、
 「私たちは、自分から出たものだと主張する能力があるわけではない。私たちの能力は神からのものである」 [2 コリント 3:5]
を理解していない。

法令8

もし誰かが、
 ある者は憐れみによって洗礼の恵みに与ることができるが、ある者は自由意志 ― それは明らかに、最初の人間の違反の後に生まれたすべての者において腐敗しているのだが — によって与ることができる
と主張するならば、
[それは] 真の信仰にその者が属していないことの証拠である。

というのも彼は、最初の人の罪によってすべての人の自由意志が弱められたことを否定し、あるいは少なくとも、[自由意志は最初の人の罪の]影響を受けたが、神の啓示なしに永遠の救いの神秘を自分自身で求める能力を依然として持っているような形で [の影響であった] 主張しているのである。

主ご自身が、[以下のように] 述べることで、これがいかに矛盾したことであるかを示している。[彼は]
 「私をお遣わしになった父が引き寄せなければ」[ヨハネ6:44]、
誰も自分のところに来ることができないと宣言し、
またペテロに
 「シモン・バルヨナ、あなたは幸いである。血肉がこのことをあなたに明らかにしたのではなく、天におられる私の父が明らかにしたのである」
と言った。
また、使徒は以下のように言う。
 「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』と言うことはできない」 [1コリント12:3]

法令9

神の救助について。私たちが正しい目的を持ち、偽善や不義から足を遠ざけているとき、それは神的な好意のしるしである。というのも私たちが善を為すたびに、神は私たちがそれを為すことができるように、私たちの内で、私たちと共に働いているのである。

法令10

神の救助について。神の救助は、再生した者、改宗した者によって常に探し求められる。彼らが善行を成し遂げ、忍耐することができるようにするためである。

法令11

祈ることの義務について。祈りの対象を主から受け取らなかったら、誰も主に対してどんな真の祈りも成すことはできない。
以下のように書かれている如くである。
 「あなたの所有から、あなたに与えた」 [1 歴代誌 29:14]

法令12

神が愛する私たちとは、どのような存在なのか。神が私たちを愛するのは、彼の賜物によるものであって、私たち自身の相応分によるものではないであろう。

法令13

自由意志の回復について。第一の人間において破壊された意志の自由は、洗礼の恵みによってのみ回復されうる。というのも失われたものは、それを与えることができる者によってのみ返還されうるからである。それゆえ、真理自体が [以下のように] 宣言している。
 「それでもし子があなたがたを自由にするならば、あなたがたは本当に自由になる」 [ヨハネ8:36]

法令14

卑しい哀れな者は、自分の悲惨な状態から、それがどんなに大きくとも、解放されない。神の慈悲によって予期されたかの者以外は。
詩篇の作者が [以下のように] 言う如くである。
 「あなたの憐れみを、私たちと会うために速やかに来させよ」 [詩篇79:8]
また、
 「私の神は、その不動の愛において私に会うであろう」 [詩篇59:10]

法令15

アダムは、変えられたが、悪い方向にであった。[それは] 神が造られたものから [の変化であり]、自分自身の不公正を通して [の変化] であった。神の恵みを通して信仰者は変えられるが、彼の不公正が彼をそうさせたところの状態から、より良い方向にである。
したがって、一方は最初の罪人によってもたらされた変化であり、もう一方は、詩篇の作者によれば、「いと高き方の右手に属する変化」[詩篇 77:10] である。

法令16

いかなる人も、一見した功績によって、あたかもそれが賜物でないかのように栄誉を受けたり、
あるいは外部からの表文が文書や発話でそのように述べたから、自分がそれを受けたと思ったりしてはならない。
使徒はこう語っている。
 「もし義化が律法によるものであったなら、キリストは何の目的もなく死んだことになる」 [ガラテヤ 2:21]、
また
 「高みに上ったとき、捕虜の軍勢を導き、また人々に賜物を与えた。」 [エペソ 4:8、詩編 68:18]
どんな人もその者の為すことを保持するのは、この源に由来するのである。しかし、彼が保持するのはこの源に由来するということを否定する者は、本当はそれを保持していないか、さもなければ
「持っているものさえ取り上げられる」[マタイ25:29]
のである。

法令17

キリスト者の勇気について。異教徒の勇気は単純な欲によって生み出されるが、キリスト者の勇気は、神の愛から [生み出される]。
それは 「私たちの心に注がれた」ものであり、私たち自身の側からの意志の自由によるものではなく、「私たちに与えられた聖霊によって」である [ローマ5:5]。

法令18

恵みは功績に先行するものではないこと。報酬は、諸々の善い業のためのものであり、それが実行される時に [生ずるの] である。しかし恵みは、私たちには何の主張[権]もないが、[善い業]が為されるのを可能にするために、それに先立つのである。

法令19

人が救われるのは、神が慈悲を示すときのみであること。人性は、たとえ創造された時の健康な状態にとどまっていたとしてさえも、創造主の援助なしに、自らを救う手段を持ち得ない。したがって、人間は賜物である神の恵みなしには彼の救いを保護することができぬならば、どうして既に失ったものを神の恵みなしに回復することができようか?

法令20

人は神なしには善を為すことができないこと。神は、人が為さぬ善を、人の内で多く為す。人は、神が責を負わぬ善を何もせずに、それを彼にさせるのである。

法令21

自然と恵みについて。使徒が律法によって義化されようとし、恵みから脱落した人々に対して、極めて真実にも [以下のように] 言っている。
 「もし義化が律法によるものであったなら、キリストは何の目的もなく死んだことになる」 [ガラテヤ2:21]

それでキリストへの信仰が擁護し保持している恵みは、自然である、と想像する人々に対しては、極めて真実にも [以下のように] 宣言される。
 「もし義化が自然によるものであったなら、キリストは何の目的もなく死んだことになる。」 [※聖句ではない]

さて律法は確かに存在したが、それは義化しなかったし、自然は確かに存在したが、それは義化しなかったのである。それゆえキリストは無駄に死んだのではなく、
 「わたしが来たのは、それらを廃止するためではなく、成就させるためである」 [マタイ5:17]
 と言った者によって律法が成就されるようにするためであり、そして
 「失われた人を捜して救うために」 [ルカ19:10]
来た、と言った者によって、アダムによって破壊された自然[本性]が回復されるようにするためであった。

法令22

人間に属するものについて。人は、不真実と罪以外には何も持っていない。しかしもし人が真理や正義を持っているとすれば、それは、この砂漠でわたしたちが渇き [求め] なければならない泉からのものであり、そこから水の雫によって爽やかにされ、道中で気を失わぬようにするためのものである。

法令23

神の意志と人の意志について。人は、神を不快にさせることを為す時、神の意志ではなく自分の意志を為している。しかし自分の意志に従いつつ、神の意志に応じるとき、いかに進んでそうするとしても、それは彼の意志である。それによって、人の意志することは準備され、指導されるのである。

法令24

ぶどうの木の枝について。ぶどうの木の枝は、ぶどうの木に生命を与えるのではなく、ぶどうの木から生命を受けるのである。このようにぶどうの木はその枝に対して、生きるために必要とするものを供給する関係を持っており、それを [枝] から取る [関係] ではない。このように、キリストが自分の中に留まることも、キリストの中に留まることも、キリストではなく弟子たちにとって有利なことである。というのも、ぶどうの木が切り倒されても、生きている根から別のものが芽を出すことができるが、ぶどうの木から切り離された者は、根がなければ生きていけないからである。[ヨハネ15:5]

法令25

私たちが神を愛する愛について。神を愛することは、完全に神の賜物である。彼は愛する者であり、たとえ自分が愛されておらずとも、自分が愛されることを許したのである。私たちは、神を不快にさせるようなときでさえも、愛されている。それで、私たちは神を喜ばせる手段を持つことができるのである。というのも、私たちが父と子と共に愛する御霊が、父と子の愛を私たちの心に注いだのである。 [ローマ5:5]

結論

このように、上に引用した聖句の文章や古代の教父たちの解釈に従って、私たちは神の祝福のもと、次のように説き、信じなければならない。

最初の人間の罪は、自由意志を非常に損ない、弱めたので、
それ以後は、神の慈悲の恵みが先行していない限り、誰も神をあるべきように愛し、神を信じ、神のために善を行うことはできない。

したがって、私たちは、義人アベル、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、そして昔のすべての聖人たちに与えられ、使徒パウロが彼らを称賛している輝かしい信仰 [ヘブル11章] は、アダム以前のように、自然本性の善によってではなく、神の恵みによって授けられたことを信じる。

そして、私たちは、私たちの主が来られた後も、この恵みは、洗礼を受けたいと願うすべての人の自由意志にあるのではなく、キリストの恩恵によって与えられることを知っているし、また信じている。すでに繰り返し述べられているとおり、また使徒パウロが [以下のように] 宣言するとおりである。
 「キリストのために、あなた方が彼を信じるだけでなく、彼のために苦しむことができるようになった」 [フィリピ 1:29]
そしてまた、
 「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、イエス・キリストの日にそれを完成させられる」[フィリピ 1:6]
そしてまた、
 「あなたがたは、恵みによって、信仰によって救われたのであり、それはあなたがた自身の行いではなく、神の賜物である」 [エフェソ 2:8]
また、使徒が自分自身についてこう言っている。
 「私は忠実であるために憐れみを得た」 [1コリント7:25、参照:1テモテ 1:13]

彼は「私が忠実だったから」ではなく、「忠実であるために」と言っている。そしてまた、
 「あなたがたは、受けなかったものを、何を持っているのか。」 [1コリント4:7]
そしてまた、
 「あらゆる良い賜物、あらゆる完全な賜物は、光の父から下りてくる、上からのものである」 [ヤコブ 1:17]
そしてまた、
 「誰も、天から与えられたもの以外、何も受けることができない」 [ヨハネ 3:27]
聖典には、恵みを証明するために引用できる箇所が無数にあるが、簡潔にするために、それらは省略した。というのも、数少ない例で十分と見なされるところでは、それ以上の例は実際には役に立たないためである。


公同の信仰によれば、洗礼によって恵みを受けた後、すべての受洗者は、忠実に働くことを望むなら、キリストの援助と協力を得て、魂の救済に関して本質的に重要なことを実行する能力と責任を持つと、私たちも信じている。

私たちは、神の力によって悪に予定された者がいるとは信じないし、
それどころか、もしそれほど邪悪なことを信じたい者がいるならば、その者たちは呪われている、と、全くの嫌悪と共に宣言する。

私たちはまた、私たちのために、[以下のように] 信じ、告白する。あらゆる善い業において、
私たちが主導権を握り、神の憐れみによって助けられるのではなく、
まず神ご自身が私たちに、報いに値するような自分自身の善い行いがなくても、神への信仰と神への愛の両方を抱かせ、それによって私たちが忠実に洗礼の秘跡を求め、洗礼後は神の助けによって神に喜ばれることをできるようになるのである。

したがって、私たちは極めて明白に [以下のことを] 信じなくてはならない。主が楽園の家に呼び寄せたあの泥棒や、主の天使が遣わされた百人隊長コルネリウスや、主自身を迎えるにふさわしいザアカイの、賞賛に値する信仰は、生まれながらの素質ではなく、神の優しさの恩恵の賜物なのである。

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