その方向性はバレている。
他人に褒めらたくてオシャレしている人と、自分のためにオシャレしている人。
基本的にその人はどっちを向いて着飾っているのか、この差ってなぜか伝わってくる。
自分のためにオシャレしている人って、なんだか似合っている。もちろんそれなりにTPOは考慮しているだろうけれども、今日着たい服を「自分自身に」問いかけている感じがきちんとする。
定番の服を着ていても、個性的な服を着ていても、はたまたヤンキーテイストで仕上がっても、要するに、その人の心うちをまっすぐ表現しているから清々しい。
一方、他人に褒められたくてオシャレをしている人って「今、これを着ていれば褒められる」という、他人の目線を基準にしているのが伝わってくる。
雑誌から抜け出したようなオシャレをしていても、旬なアイテムを身につけていても、なんだか着せられている感じがする。自分発ではないから、見ていてしっくり来ないのである。せっかく高価なブランドものを着ているのに、流行のものを着ているのに、浮いているのである。自分に問いかけていないからその人自身が表現されておらず、服だけが前面に来ている。その人の内面と外面との齟齬が起こる。
あるいは同じく他人目線で考えて、「これを着ていれば、顰蹙は買わない」だとか「これを着ていれば無難だ」だとかいう場合も、浮くどころか沈んでいる(まぁ、目立ちたくないという、そこが狙いなんでしょうけれども)。
結局、浮くも沈むもどちらも、基準を「自分」に問うているのはなく、「他人」に問うているのだ。
同様に、他人に幸せに見られたい人と、自分が幸せな人っていうのもよくわかる。他人に褒められたくて頑張っている人と、自分のために頑張っている人。これも伝わってくる。
そして基本、幸せに見られたい人も、褒められたい人も、その欲求が満たされるのは他人ありきなので「ア・ピール」がすごいわけですよね。承認欲求のカタマリと言いましょうか。
そして私の目の前をチラチラと褒められるまで行ったり来たりするわけだから、何か言わないと相手も鎮まってくれないわけである。
職場でも、学校でも、どこにでもそんな人はいたが、とくに顕著に感じられたのは、ママ界。しかも専業主婦ママ界。
2人の年子を幼稚園に通わせていた時期、自分を含めて周囲には専業主婦がたくさんいて、いわゆる「承認欲求が強い人」というのはやたらポコポコと出現しては眼前をチラチラと遮っているように思われた。
そんな人々がママ界に多かったのは、きっと他人に認められにくい、褒められにくい、お金にもならない「子育て」という仕事からくる反動もあるのだと思う。そして多くの人は、学歴、職歴、旧姓をはじめとして実家、あるいは自由なお金のある身軽な生活など、今まで培っていたものをすべて捨てて、誰もが等しく「ママ」という名のスタートラインに赤子と共に立たされたこと。そしてそれによる動揺も関係あると想像する。あらゆるものが白紙に返されたので、改めて自分というものを構築しようとしているのではないか。その気持ちは私もよくわかる。
ただ、そこから自分を見つめながら手探りで再構築するのではなく、他人に褒められることで自分自身を築き上げようとする人たちがいるのだ。
接しているうちになんとなく思ったのは、こういう他人目線で再構築したい人たちは、親に褒められなくてはという人生だったり、あるいは出産前の社会経験で挫折して、自分に自信を持つことができず、ここで再リベンジを果たしたい人たちが多いように思われた。
ただ、そのリベンジ。他人によってではなく、自分で立て直して欲しいのが正直な私の意見。
彼女らの手段は、いいママやってます攻撃や、ハイソな生活しています攻撃、子どもが優秀なんですよ攻撃から、友だちが有名人攻撃まで、実に多様だ。質問してもいないのに、ちょいちょい会話に挟んでくるので、「すごいね!」って言うしかない状態に追い詰められる。
本当に充実した生活をしている人はわざわざアピールしなくても佇まいから伝わる。いいママも、子どもを見ていればわかるし、付き合っていればわかるものだ。
けれども過剰にアピールされると「ハイソかもしれないけれど、品がないよな」とか、「そんなに何もかも手作りってスゴイけれど、子どもにはちゃんと手をかけているのかな?」とか、「いいママ感は凄いけれども、本当に家でもちゃんとやっているのかな。演技っぽいな」と、ついつい余計な詮索をされて逆効果な気がする。
さらになかなかこちらが褒めないと、今度は「褒めてあげたから褒めて」攻撃へ転じる場合も。そこまで来ると、もう面倒臭いのでこちらも何か褒めるが、テキトーなことを言ったぶん、疲弊するのは私だ。なんとなく圧に屈した敗北感、自分に嘘をついた罪悪感が残る。
「褒められたい科」の中には「『ありがとう』と言われたい属」に類される人も多い。過剰なプレゼント攻撃やあなたの子どもの世話をしてあげたのよ攻撃、その仕事全部私がやります仕切ります攻撃、などなど。
いろいろと世話を焼いてくれたりしているのに文句を言う私も何ですが、世話好きで本当に子どもの面倒を見てくれる人と、褒められたくて子どもの面倒を見てくれる人の違いは、そのうちわかってくる。「自分」が子どもが好きだからやっているのか、「他人に褒められたくて」やっているのか。口では「好きでやっているから」と言いながらも、やっぱり褒められたいオーラがむんむんで、どこかで何かが過剰なのだ。欲望と「ア・ピール」が、はみ出しているのだ。
しかし、こうなってしまったら、もう「ありがとう」を言うしか選択肢がこちらもないのである。一歩も引けない状態なのである。単に私がひねくれているだけなのかもしれませんが。
人に「ありがとう」や「すごいね」を期待するということは、他人にそれだけ負荷や圧力をかけるということだ。
結局、本当に尊敬されているわけではないし、頑張れば頑張るほど、心無い「へー。すごいね」や「ありがとー」を受け取っているわけだから、本人も無意識下では満たされていない。だからもっと頑張るという悪循環が生まれているように思う。
私には自転車操業のシャチョーさんのように、あるいはエアロバイクをヒィヒィと漕いでいる人のイメージが浮かんでしまう。
基準が「他人」目線である人は、幸せどころか、むしろ辛そうなのである。
もちろん承認欲求は誰にでもある。私だってnoteに「スキ」を押してもらうと嬉しいし、「いい記事書いたね」と言われれば気分が揚がる。子どもが褒められるとちょっと誇らしいし、素敵なスカートねって言われると「ありがとう!」と言う。
でもそうではなくて、オシャレでも、生活でも、仕事でも、子育てでも、初動の「方向性」が肝心だ。もちろん、誰もが多少は他人を意識するだろう。でも、根本的に「他人」に褒められたくてやっているのか、「自分」が満ち足りるためにやっているのか。どちらを向いているかで、大きく様相が変わってしまうし、それは周囲には筒抜けなのだ。
まぁ、振り返ると。そんなに容姿も悪くないのにモテない男子って「外向き」だったし、めちゃくちゃモテる男子って「内向き」でした。子どもながらに女って見抜いているよねぇ〜と思う。
とにもかくにも、こうやって偉そうに言っている私だって「よく見られたい」という欲望がひょっこり顔を出すときはある。そんなときは、たまに振り返って、「これって私はどっちを向いているんだ?」と、確認しながら手探りで進もうと思う。