憎むべきは、神経細胞なのか
「おまえのポジションは、いったいドコダーッ!?」
と、空に響くほどの大声に私は振り向いた。サッカーグラウンドの片隅で、小学2年生の男の子が叱り飛ばされている。
これはコーチの怒号ではない。なんとお母さんの声。
そんな小さな子に! しかもポジションなんてまだ理解できるはずもないのに! と、度肝を抜かれた私はとっさにしゃがみ込み、植え込まれたツツジの後ろに隠れた。
「どこに走り込むべきなのか、お・ま・え、わかってんのかーッ!!!」
お母さんはさらに怒鳴りつける。うまく練習中に立ち回れなかった息子へのきつい攻めが続いたが、ふと、いきなりその叱責の声が止んだ。
時は冬。私のかぶっていた白いニット帽の先のポンポンが、ツツジの植え込みの上にピョコンとはみ出していた。
すんません。つい、盗み聞きなどしてしまいました……。
またあるとき、飲みの席でパパ友がサラリと言った。
「オリンピック選手もW杯の選手も、最終的には親の頑張り次第なんだよね」
私は、「あ……あ、うん」と返事をしながら、思わずビールをグイグイと飲み干す。後の言葉が続かないからだ。
彼は自分の子どもがトップに行くためには努力は惜しまず、常に情報をかき集め、研究を重ねている。そのために私の息子と一緒に所属していたサッカークラブを抜け、より厳しいクラブに子どもを移籍させたところだ。
でも、そこまでの高みを目指していたとは思わなかったので、正直、動揺した。確かにあなたのお子さんは運動神経はいいけれど、果たして親の粘りでどうにかなるものなのか?︎
W杯もオリンピックも観ていて思う。これは特異体質同士の戦いだなと。なんなら世界ビックリ人間ショーなのである。
ショウリョウバッタのようなバネの持ち主だったり、もう猿と言い切っていい反射神経、ネコ科動物のような動体視力に馬車馬のような体力、走力。
人間はそういった天才に憧れる。そして彼らの死力を尽くすところを観るのが大好きだ。
なぜか。
おそらく一流選手に自らを投影し、まるで自分がその場でプレーをしているような一体感を持てるからだと思う。そして、それはとても快感だからだ。さらには、そこに至るまでの努力を想像し、共感し、明日への活力をもらえるからだと思う。たとえカウチポテトで観戦していても、心はフィールド上に立てるのだ。
ひとえに人間の高度な共感力のなせるわざにより、プロスポーツ産業は今日も存続するのだろう。
さて、この7年間、長らく子どものサッカーを観ていると感心する。
バーンと天賦の才能がある子どもが風のように現れて、それはそれはサラリとすごいことをやってのけるのを。
何千人、いや何万人に1人かもしれない、そんな子は。そしてそんな子どもたちの中で、人の何倍も努力できる資質はあるのか、厳しいプレッシャーに耐えられる精神力はあるのか、難しい戦術を理解し、その先を予測できる頭脳を持っているのかなど、さらなる高度なフルイにかけられ、それらをくぐり抜けた子たちがプロの世界に、さらには世界のフィールドに挑める。
はたしてそんな果てしないイバラの道のりを理解しているうえで、親たちはあのように子どもに厳しいのだろうか。グラウンドの隅で、子どもが親に叱責されている姿は日常茶飯事だ。冒頭のお母さんが特殊なわけではない(ちょっと声デカかったけど)。
古今東西「プロのスポーツ選手」というものは、卒業アルバムでも一目瞭然なように、多くの子どもたちが見る夢である。
メッシのように、本田のように、大迫みたいにハンパないって言われてみたい……。あのスタジアムで大歓声を浴びたい。決勝点を決めてみんなで抱き合いたい。
だけど、それは子どもの夢で、親が見る夢ではない。
なのに子どもを大きく飛び越えて、親がトロ〜ンと夢見ている場合が多くてびっくりする。あまりにも、あまりにも多いその数に。
もちろん、ある程度、親の支えは必要だと思う。
確かに私たち夫婦もこの7年あまり、2人の息子のサッカーの送迎や試合の応援、その他諸々、経済的、時間的、労力的にも、かなりのエネルギーを注いできたと思う。でも我が家の場合、それはプロにするためじゃない。
以前、「まぁ、中学でもサッカーやるかわからないしね」と言った私のひと言に、「ダメだよ! 今までの私たちの努力が無駄になるよ! 止めちゃ、もったいないよ!」と、食い気味に言ってきたママがいた。
でもサッカーを続けるために、プロにするために努力をしているんじゃない。子どもがサッカーを好きだから、そしてサッカーから人生の糧になる多くのことを学んで欲しいから、親はバックアップしていたのである。息子が他のことに興味を持ち始めたら、そっちに移ってもいいのだ。
そしてたとえ止めても、サッカーを頑張ってきたという事実は消えないのだから、子どもにとって無駄なことなどないのだ。
つい数年前までうちの長男は、サッカーをスタメンで頑張りつつも「将来、漁師になりたい」と言っていた。しかしその漁師の夢に乗っかってスパルタ教育をする親というのは、一般的にあまり想像ができない。なのに、なぜサッカーに限らず、プロスポーツ選手を希望する子どもの夢には、親はすぐ本気で乗っかるのか。
漁のための小学生のクラブチームはないし、習い事でもないから? あるいはトップアスリートの年俸がものすごいから? 自分が果たせなかった夢を叶えてもらうため?
いや、きっといろいろな要素が絡まっているのだろうが、大きな違いはこうでないか。
たぶん漁はスポーツ観戦と同じようには、自分を投影して興奮できないからだろう。マグロの一本釣り漁ならいざしらず、多くの漁師が行っている船びき網漁に心を熱く震わせる親はちょっと想像しづらい。
でもスポーツなら容易にできるのだ。親たちは応援しながら、同時に子どもに自分を投影している。だから思わず熱くなる。怒りも湧く。
呪うべきは親のミラーニューロン※なのだろうか。
(※他の個体の動きを見て、自分自身も同じ動きをしているかのように反応する神経細胞のこと)
でも、子どもは子どもであって親じゃない。勝手に投影されても困る。不器用な動きにイライラされても、期待通りにプレーしないからって怒られても迷惑だ。
百歩譲って、その子どもがビックリ人間だったら、そこまで熱くなってしまうのはわからんでもない。天賦の才能があるのなら。
でも見るからに平凡そうなおたくのお子さんが、いきり立った親に、ど突きまわされているのを見るとやるせない。
親を喜ばせようと、褒められようと、認められようと、そして怒られまいと、健気に死ぬ気で走っている子どもを見ると胸が痛い(そしてあざといことに、そんな親のためのビジネスが成立しているのも腹立たしい。小学生のうちからプロを養成すると唄っているクラブチームとかがね、たくさんあるのだ)。親の努力でどうにかなるのなら、もうとっくにみんなアスリートだ。
夢を支えると言えば聞こえはいいが。
本当に、子どもはそこまで望んでいるのかと思うときがある。
大人の現実の世界はあまりに世知辛い。やがて子どもでも、そのスポーツにおいて「限界の洗礼」を受けるときがある。
せめて今は、今だけは、子どもにトロリとしたプロスポーツ選手になる甘い夢を見させたままでいいのでは……と思うのだ。
↑ 冒頭のパパ友とはまた別の人。たくさんいるんだ、これまた。
▼子どもの職業について、お時間があれば。