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愛と刑務所


渡辺淳一センセイの「愛の流刑地」みたいな題だけど、こちとらエロスではなくマジっす。

たとえば自分の子どもが誰かに、意味もなく殴られてきたとする。しかも「のび太のくせに生意気だぞ」的な理不尽な理由で。「ドラえも〜ん」とは言わないが、泣きながら帰ってきたうちの子どもにどう対応するか。私ならこう。
「ひどいね。こりゃ痛かったね。でもどう? 自分がやられて嫌だったことは、人にやっちゃダメだと思うよね」と言う。そして子どもがその痛みにぐっと耐えて自分の尊厳を立て直すまで、一緒に寄り添う。
よその家庭は知らないけれども、うちでは「やり返してこい」とは教えない。そして「泣き寝入り」だとか「やられ損」だとかいう単語も決して教えない。
同じ土俵に上がってやり返しても、それでは無駄な暴力を振るっている相手とレベルが変わらない。それは同じ穴のムジナだと教える。

のび太はドラえもんに安心してもらうために、ジャイアンに拳を振り上げて挑みにいくことがあったが(そしてボロ雑巾のようになるが)、私だったら、そんなのび太によくやったとは言わない。勇気があるねとも褒めない。
力には力を。歯には歯を。憎しみに憎しみを等しく注いでも、何も変わらないと思うのだ。変わらないどころかますます状況は悪化する。
その考え方の行く末が戦争なのではないのか。子どもにそんなことは教えたくはないのだ。


さて、『マイケル・ムーアの世界侵略のススメ』という映画はご存知だろうか。
目からウロコのドキュメントだ。彼はいろいろ素晴らしい作品を世に出しているが、地味に良く、素直に刺さる、この映画。
この中で多くの国を訪れるムーアだが、話の半ばでノルウェーの刑務所にスポットライトを当てる。

まずは模範囚のいる刑務所。そこはとてものどかな素敵な孤島だった。
100人以上もいる囚人の中に看守はたったの4人。囚人たちは鍵付きの家を1人一軒あてがわれ、コミュニティー生活を送っている。共同で料理を作ったり、バスケをしたり、水泳、TV、ランニング。一通りのことができるが、刑期をまっとうするまでは、この島を出ることはできない。
看守は言う。「近隣が仲良くする方法を教えたい」と。「家族や友人と離れて、温かさを思い出してほしい」と。彼らはまるで村のようなシステムの中で生活することで、社会生活を、そして愛を取り戻しているのである。

一方、彼らのような模範囚ではなく凶悪犯罪者用の施設はといえば、島暮らしのような開放型ではなく、さすがにこちらは塀の中。きっと狭く寒い独房では……と思ったら、いやいや、彼らの生活もまたまた快適なのであった。部屋の出入りはなんと自由。鍵も自分で中から外から掛けられる。綺麗なバス、トイレ、冷蔵庫にテレビ付きで、まるでちょっとしたビジネスホテルのようである。いや、学生寮といったところか。
さらには創造力を養うために音楽スタジオ、美術室、図書室などもあり、所内の廊下にはモダンアートがいっぱい。望めば政治や哲学の勉強も受講できる。
私もノルウェー訪問の折には、何かひとつ事件でも引き起こして入所したいぐらいなのだ。

とにかくどちらも刑務官たちの愛に溢れ、優しさに満ちていた。刑務官と囚人といった上下関係ではなく、人と人として対等に付き合っていた。
「憎しみではなく愛を」を実践している国なのだ、ノルウェーは。
まさに刑務所は「再犯しないように厚生させるところ」なのだ。

しかし私たちの国、日本や、ムーアの母国アメリカはどうだ。
刑務所とは「悪い奴を懲らしめるところ」になっている。「懲らしめて、被害者感情を慰めるところ」であり、「懲らしめて、あんな思いをするのなら、もう二度と罪は犯さない」と思わせているところになっている。

要するにアメかムチかの問題であり、ノルウェーはアメ、日米はムチを採用しているのである。

では再犯率はと見てみると、約50%の日本と80%のアメリカ。そしてノルウェーは世界最小の20%だという。しかもノルウェーは再犯率が年々下がっており、刑務所に空室がたくさんできて、囚人不足で閉鎖に追い込まれる所もあるそうな(近年、移民の流入でまた状況は変わってきているらしいが)。収容場所が足りない日本やアメリカと比べると、結果としてアメほうが有効なようである。

さぁ! このアメ・システムを早速、日本にも導入したらどうか。詐欺や暴行、殺人といった犯罪率がぐっと減るだろう!

しかし、実際には反対意見が多いのだろう。きっと世論はこうではないか。
「ルールを破っているようなやつを甘やかすのは、ズルい。人を苦しめたり、殺したりしておいて、楽しく生き生きと暮らしているなんておかしい!」と。
それは確かにそうだ。ズルいよね。こちらは被害が出たのだ。明らかに損をした。だから悪い奴らは罰を受けるべきなのだ。罰だ。
そして、その考えの延長に死刑がある。そう。アメリカも日本も、死刑制度がある国だ。

いったいぜんたい目の前から無くしたいのは、消し去りたいのはどっちなのだ。「犯罪」なのか、それとも「そいつ」なのか。前者がノルウェーであり、後者が日本やアメリカではないのか。都合の悪い「そいつ」を消したがる側に、問題はないのか。

どの事件も犯罪者たちの生い立ちを追ってみると、基本的には悲惨な環境にいた人ばかりだ。もちろんそんな過酷な環境の中で立派に生き抜いた人もいるが、そうではなかった人もいる。彼らは社会を恨んでいる。人を恨んで、人と思えなくなっている。だから人の嫌がることができる。
すべての犯罪者たちの親に責任があるとは言わないが、ある程度、育て方を間違ってしまっている人、放棄している人、虐待している人が多いのは否めない。その親たちも愛なく育てられていたりして、負の連鎖が代々続いていることもある。
その連鎖を断ち切るのはいったいどこなのだ。
彼らに愛を教えるのは、いったいどこなのか。

刑務所というところは、再犯しないように厚生させるところでもある。だとしたら『北風と太陽』の太陽のような愛がない限り、人の心は動かせないと思っている。
北風がビュービュー吹き付ける過酷で劣悪な環境の中で、絶対服従を強いることで、人は変われるのだろうか。変われる人も中にはいるのかもしれないが、愛は学べない。結果として、多くの人は変わらない。社会への恨みも抱いたままに。

自分の子ども時代を振り返っても、子育てをしていても痛感するが、罰で子どもを根底から変えることはできない。一時的には服従するが(したフリをするが)、締め付けから解放されると元に戻る。愛なくして人を変えることはできないのだ。そして人を変えたいと思うならば、まず自分が変わらなければならないのだ。

私も子どもや夫、母が被害にあったことを考えながらこれを書いている。
たとえ盗まれても、愛する人を奪われても、「のび太のくせに」と殴られても、やはり、やり返しては世の中は変わらない。
ぐっと堪えて自分が変わらないと人を変えることはできないのではないか、と思う。「泣き寝入り」だとか「やられ損」などという損得勘定で、この世を支配してはならない。
それでは戦争もこの世からなくならない。

すべては愛でしか、この世界が良くなるすべはないのだから。


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▼ 『マイケル・ムーアの世界侵略のススメ』ノルウェー編・予告(約1分半)


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今泉真子 mako imaizumi
ここまで読んでくれただけで、うれしいです! ありがとうございました❤️