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救ったつもりが、寄付に救われる

イスラエルを旅していたときだ。
ある昼下がり、がらんと人の少ないオープンカフェでぼんやりしていると、可愛い7、8歳ぐらいの女の子2人が
「あの。10シュケル、ください」
と言ってきた。シュケルとはイスラエルの通貨のこと。
「10シュケル? いったい何に使うの?」
すると女の子たちは近くのアイススタンドを指差して
「なぜなら、あそこでアイスクリームを買うの!」
と、目をキラキラさせて言った。
そのあまりの可愛いさに、ではなく。その堂々としたお願いぶりに、思わず出したよ、10シュケル。

そのときによぎったのが、学生時代、よく研究室に遊びに行っていた哲学の教授の言葉だ。
師曰く、「胸ポケットにボールペンが2本あったら、イスラエル人は『そのうちの1本を自分にくれ』と言う。なぜならユダヤの民は富を独り占めしてはならないと、神と約束しているからだ。彼らは富める者から分け与えられるのを当然の権利と考えているのだ」と。

当時はふーんと流していただのが、実際にイスラエルに行ってみたら、まぁ、その話をを幾度となく思い出すことがあった。

いろんな国をまわっているが、イスラエルの人々はあまり外国人観光客に対してフレンドリーではない。だからと言って冷たいわけではなく、障害のある人々に対して周囲がさっと自然に手を貸すような、とても洗練された優しさを持っている。いささかオープンさに欠ける気質があるように思われたのは、ユダヤ人が歩んだむつかしい歴史のせいかもしれない。
ところが、普段距離をとっている彼らだが、困ったときなどはどの国の人よりも、忍者のごとくスッと距離を縮めて言葉をかけてくるのだ。

共同シャワーでお湯を浴びていたりすると、隣のブースから「ねぇ。シャンプーある? 分けてくれる?」と言われたり、「あ。それ見せてくれる?」と持っていたパンフレットだったり、そのペンちょっと貸してと、まるで「この人、トモダチだったけ? 一緒に旅してた? いや一人旅だよね、私」みたいなことがあるのだ。しかし、みんなまったく知らない、目も合わせたこともない初対面同士だ。

先ほどのアイスが欲しいガールズと会話したときも、教授の言葉がよぎったわけであり、お金を渡したのは、ここはイスラエルなので、郷に入れては郷に従えという声が響いたわけだ。はたして日本で同じことをするかはわからない。まず、日本ではこんなシチュエーションはないのだけれど。

思い返せば最初、彼女たちはヘブライ語で私に話しかけ、私は「ん?」という顔をしたのですぐに英語に切り替えしてきた。なので観光客にたかった様子でもなかった。ありきたりな日常の一コマのように感じた。
彼女たちは、当然のようにお金を持っている人から分けてもらったわけである。

たまたまだったのかもしれない。数回の経験、ほんの3週間ほどの旅で、イスラエル人の傾向を語るのは無謀だ。教授の言葉による、先入観があったのも否めない。
しかし「富は独り占めしてはならない」という言葉は、急に現実味を帯びたのだった。結果としてイスラエルでのそうした体験が私に一つの旅のルールを作った。
そのマイルールというのは
「もし、その手に何か持っていたら、喜んで分けよう」というもの。

これはイスラエルを問わず、自分に課したルールだ。
旅行中に物乞いに出会ったら、もしパンを持っていたら半分に分けよう。小銭を握っていたら、半分あげる。チョコレートを食べていたら、ビスケット1枚あったら、半分こ。
もちろん銀行やATMでまとまったお金を下ろした直後に言い寄られても、それは聞かなかったことにするのだが、カバンの中の大事な路銀ではなく、その手やポケットにいくらか小銭があったら半分こにするのが、旅のマイルールだ。

というのも、外国旅行をしていて必ず遭遇するのが「物乞い」問題である。実際に旅行していて誰もが思うことだろうが、世界には実に多くの物乞いがいるのだ。もちろん、その国々によって違いはある。
そして彼らの多くは実にアクティブなのである。つまり、道でじっと座っている地蔵待ち方式ではなく、もう真横に来て直に訴えてくるダイレクトキャッチ方式だ。くれくれと遠慮なく手を伸ばす。
地蔵待ち方式の人だって、笠地蔵のように受け身で澄ましているわけではない。ダンボールになんらかのメッセージを書いて指差したり、置いたお皿を振ってみたりして、通りかかる人々のヴィジュアルに積極的に訴えている。

それからすると日本のホームレスは実におとなしいのである。おとなしいを通り越して、なにやら別世界に住む接点のない人々だ。

日本の場合は、空き缶やら雑誌やらを適当に売って日銭を稼いでる人が多いせいか、ゴミも良いゴミが出ているせいなのか、あまり積極的に物乞いをしてくるホームレスは少ない。いや、ほとんど見ない。
生活保護などの社会保障が割としっかりしているイメージなので、実際はいろんなケースがあるのでしょうが、ホームレスの人々は「あえて、その生活を選択した」と思われがち。日本人は彼らに同情を寄せない傾向にあると思う。
そもそも移民や奴隷が多い(かった)国々では、人種的にスタート地点から絶対的に不利な人たちがたくさんいるわけで、それと比べると最初から人種の格差が少ない日本は、ホームレスに同情的になりにくい。

それゆえなのか、日本人はあまり「分け与える」という経験に慣れてないように思われる。

しかし、先ほどのアイスちょうだい問題でもわかるように、ユダヤ教は……いや元をただせば三兄弟である、イスラム教、ユダヤ教、キリスト教文化では「富を分け与える」という考えを脈々と受け継いでいるのである。
税制上の問題も大きいのだが、アメリカの家庭は年間、日本の家庭の100倍も寄付をしているらしい。100倍って、すごい金額だよね。私が500円の寄付をしたとすると、アメリカのお母さんは5万円の寄付をしているわけだ。

やれアンジェリーナ=ジョリーが、やれビル=ゲイツが何兆円だか何億円だかとポンポンと寄付をするニュースなどを耳にしては、しょせんは金持ちの湯水のような金のほんの一部だと思っている節があった。
しかし、家庭レベルでこの差である。「富の分配」とは金持ちだけがやるものではないはずだ。

今回、noteのこの「寄付について考える」という企画があったので、ふと思い出して今回このように書き始めたのだが、こんな書き出しなのは私の妄想が遠くイスラエルまで旅をしてしまったからで、被災地や貧困に喘ぐ人を「物乞い」扱いしているわけで断じてない。

ただ、言いたかったのは、寄付をする側についてなのである。
私は、物乞いに寄付するのも、災害に寄付するもの、根底は同じだと思っている。
困っている人ほうへお金を流す。お金はたまたまラッキーなことに私の手の中にあるけれども、アンラッキーなほうへ流す。川の流れのように。
富は自分だけのものではないのだ。天下の回りものなのである。
いつか私もその富(なけなしの)を失うときがくるかもしれない。全てはお互い様なのだ。

私が思うに寄付というのは、誰に使われるのか、どう使われるのかはわからないけれども、きっといいことがあるといいという祈りだ。困っている人たちが少しでも楽になるようにという深い祈りだ。

そして同時に、お金を「手放す」行為なのだと思う。
毎日本当に切り詰めて旅をしていた、貧乏長期旅行者だった私が、それでも富を分配すると、どこか豊かな気持ちになれたのだ。
そして知った。寄付とは、これだけ貯金していたらアレを買えるだとか、老後や将来のためにできるだけ貯金をしていたいという私たちの欲、執着を一度ぶっ壊す行為なのだと。

自分はお金に執着せずに済んだという、安堵感。そしてそうできたことをありがたく思う、救われた気持ちだ。自分から欲を引き剥がした、開放感なのである。
結局はお金に縛られている、器の小さな自分を再構築するのだ。
救っているようで、寄付に救われているのは自分なのだ、と思った。



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今泉真子 mako imaizumi
ここまで読んでくれただけで、うれしいです! ありがとうございました❤️