最後の砦でありたい。
昨夜、とても哀しいニュースが飛び込んできましたね。りゅうちぇるサンが亡くなったと…。
事件、事故、災害や病気などで人が亡くなる知らせを聞くたびに、たとえそれがまったく知らない人であったとしても、私たちはきゅうっと胸が痛くなるものです。
まして身近な人であったり、よく知っている人であったりすると、心が苦しくなったり頭から離れなくなったりすることも…。
保健室の先生をしていた頃、幼い小学生や思春期の中学生が大切な人との別れを経験することで、自らが痛んで弱りきってしまう姿を何度も見てきました。
純粋で優しい子どもたちは、人の痛みを自分に置き換え、自分も同じように感じて抱え込んでしまうことがあります。
年齢が低く、すぐそばで誰かがしっかり見守り保護できている状態であればまだ安心ですが、思春期以降だったりすると誰とも分かち合うことなく1人で抱えてしんどくなることも…。
最近は、こういったことに配慮してニュースのあとに「悩みはこちらの相談窓口へ!」という紹介が映し出されるようになりました。
ただ、いつも思うのです。
心がきゅうっと苦しくなったとき、すぐそばに「誰か」がいてくれたなら…と。
その時すぐそこに、いてくれたなら…と。
そうかそうか。
苦しかったか。
わかる気がするわ。
そうだよね。
うんうん。
言葉は少なくとも、湧き上がる感情を丸ごと受け止め、ただただ頷いてくれる存在に恵まれたなら、どんなに救われることでしょう…。
人の死にふれたことによる胸の痛みなんて、そう簡単に消えるものではありません。
仕方ない。
切り替えて。
いつまでも引きずったってねぇ。
立ち直れないのは、あなたが弱いから。
そんな言葉で片付けてはいけないのです。
大切な人の死を受け入れるのに、1年も2年も必要とした子がいました。
励ましたり元気づけたりなんて軽々しいことはできません。
ただそばにいて、孤独じゃないよ、一緒にいるよと感じてもらいたい…。
できるとしたら、そのくらいでしょうか。
あまりに深い哀しみは、時として心を閉じてしまうことにもつながります。
何も感じない。
何も考えられない。
何もできない。
そんなふうになることさえあります。
心がきれいでまっすぐな人ほど、そうかもしれません。
強く逞しく、どんなことがあってもへっちゃら!なのが立派な場合もあるでしょう。
でも、それはそれです。
私はもう、退職して自宅にいるただのおばあちゃんでしかありませんが、今を生きるたくさんの子どもたちを心から気にしています。
りゅうちぇるサンの死に動揺している子どもたちの心の揺れに、誰かどうか気づいてあげてほしい…。
普段通りの顔で普通に授業を受けている子の心の痛みに気づいてあげてほしい…。
特に保健室は、最初にSOSをキャッチする場所であると同時に、どんなことがあっても子どもを守る最後の砦でもあります。
子どもにとって、1番の安心基地は家だと思いますが、毎日過ごす学校にも安心基地が確かに存在しますように。
大人になれば、大人であれば、相談先(人や場所、専門機関の連絡先など)が思い浮かんだり選べたりして行動できるかもしれないけれど、子どもはそんなことできないのです。
私は若者ではありませんが、りゅうちぇるサンの件が子どもたちに与える影響は大きいだろうという察しはつきます。
胸を痛めるすべての人のすぐそばに、その哀しみを受け止める人がちゃんといてくれますように…そっと祈っています。