見出し画像

チクチクした時。

スーパーでの支払い時、システムが分からずに、店員さんに「〜ですけど」と言われた時。

上司がその場にいない人のことを皮肉っていた時。

父親に「そんな説明じゃ何も分からないが」と言われた時。

面と向かって嫌なことを言われるというのは、大人になってからは少なくなった。
しかし、何となく嫌な言い方をするなと感じる場面には遭遇する。

言葉のささくれのようなこの感触に、痛みを感じる人もいるのではないだろうか。

世の中にはチクチク言葉という表現があるそうだ。

画像1

しかし、私が言いたいのはこんなにはっきりとしたチクチクではないのだ。

特に「〜ですけど」という言葉は誰しもが使う言葉であり、目に見えてチクチクしてはいない。言った方は悪気は無いのかもしれない。しかし言われた方は、「これは常識なのか。私は知らなかった。常識がないということなのだな。」と感じる時もある。そして、その時は従ってしまうが、心の中では「どうしてそんなにキツい言い方をするのだろう」と困惑し1人悲しむ。

記事に書かれているチクチク言葉のように、言葉そのものがチクチクしている訳では無いため、どう表現をしたらよいのか分からない。

しかしそういった言葉の奥底からは、必ず侮蔑のような感情が読み取れる。



言葉にされていないチクチクを感じた時、若い頃はただショックで引きずるだけであったが、「言われていない、されていないことは存在しないのと一緒」と割り切れるようになってからはかなり楽になった。

たとえその店員さんが心の底で私を侮辱していたとしても、言葉にしていないのだからその気持ちは存在しないのと一緒だ。

「過敏な」人はどうしても頭の中で不安感を大きくしてしまう。態度や声色、表情など色々な情報を全て受け止めてしまう。そして悪い方に考えがちだ。

しかし落ち着いて欲しい。相手に直接嫌なことを言われたわけではないだろう?もしかするとその店員さんは、仕事前に嫌なことがあり落ち込んでいるのかもしれない。お腹が痛いのかもしれない。前の客に嫌なことを言われたのかも……。言葉にされていないのだから知る由もない。

今回、私が侮辱的だと捉えた根拠は全部自分の空想だ。不安感は全て自分の頭の中にある。

過敏な人というのは、もっともっと他人に無関心になっていいと思う。そして、他人もまた自分に無関心であることを知るべきだ。

自分が思っているよりも、他人は自分に関心を持っていない。

目に見えない、存在すら危ういものを気にするよりも、目の前にあることを大事にしよう。自分のするべき仕事をしよう。

誰かに気に入られる必要などないのだ。自分の最善を尽くしていれば。

今回はたまたま店員さんと温度差があっただけだ。低気圧が近付いてきていたせいで、自分の方が過敏になっていたのかもしれない。


ありもしないことをぐるぐると悩んでしまう時、一度冷静になって考えて欲しい。そういう時はたいてい杞憂だ。不安は頭の中にしかない。



読んでいただきありがとうございます。お気軽にスキして下さると嬉しいです。