島豆腐とトラウマ
島豆腐は、もちろん子供のころから食べていたが、実はそんなに思い入れはない。ただ大人になって、どうも本土の木綿豆腐とは違うものらしいと知ってから、チョイチョイ気になるようになったくらい。それはつまり大学生になって本土の人間と関わったころからだ。彼らの証言では「日本の豆腐は水の中に漂うか弱い存在」と言うことを聞き、確かにそれは僕の知っている豆腐ではないと、己の沖縄
アイデンティティに目覚める中に、島豆腐は今も大きな意味を持つ。
記憶の中の島豆腐は、近所の商店の涼しげな棚の上にいつも、ドカッ!と屹立していた。小さかった僕の目線から見れば、一丁の豆腐は巨大で、威風堂々とした貫録を持っていた。角に頭をぶつけても死なないとは思うが、足の指に落とすと痛そうに見えるくらいだ。映画『2001年宇宙の旅』の猿人達が、モノリスに怯えながらもひきつけられた様に、豆腐にちょこっと触れてみたいと思ったものだ。衛生上良くないので触らなかったが、触っていたら今ごろ僕は何かに進化していたかも知れない。まあ僕と島豆腐の話は以外に薄いのである。
でも母方の祖母が、豆腐作りを生業にしていた。夫を戦争で亡くした沖縄ではよくある話だ。そんなわけで僕の母は、子供のころに豆腐作りを手伝わされたそうで、二度と豆腐作りは作りたくないとぼやいてた。母が住んでいたのは那覇市の楚辺。そこから今の国際通りを超えて、海岸までニガリに使う海水を汲みに行かされたのが、とにかくトラウマ級に辛かったらしい。子供の足なら往復で一時間以上かかる距離だ。例えバケツ一杯の海水でも、片道30分を持ち歩くのは、大人だってやりたくない。しかも、二人いる兄たちは、男の子だからと台所仕事は免除されていたので、末っ子の母だけがその仕事を担当していたとか。それもまた沖縄によくある話。
母は10歳のころ沖縄戦を体験している。十十空襲で那覇が壊滅するのを目撃し、その後ヤンバルに疎開。ハブを食ったりして山の中を生き延び、戦後は久志の捕虜収容所で過ごした。その後、那覇市楚辺に家族で移り住む。
当時の楚辺は那覇市ではなく、戦後数年しか存在しなかった"みなと村"の一部。港湾労働者とその家族が住むためのに1947年から1950年の三年間だけ存在した独立した行政地区だ。その中心は今の奥武山公園にあり、初代村長は労働者を束ねていた国場幸太郎だった。
晩年の母が僕に嬉しそうに見せた本が、今は僕の手元にある。タイトルは『証言でつづる みなと・城岳中等学校史 消えた学校』。「みなと・城岳中等学校の同窓会が編纂したもので、母と同世代の人々が子供目線で語る那覇の復興の記録になっている。巻頭の写真ページには学校の記念写真が掲載されていて、当時の母親の姿も見ることができる。笑っちゃうほど妹にそっくりだ。たぶん豆腐作りを手伝っていたのも、このころのはず。
書籍には当時の女の子たちの遊びで、「薬莢を拾ってヤスリで削り、指輪を作った」なんて話が載っていたが、当時の母もそんな子供らしいことをしていたのだろうか。それとも放課後は豆腐造りの手伝いで遊ぶヒマもなかったのだろうか。母が死ぬ前に読んでいたら、もう少しいろいろ話が聞けたのにと後悔の年にさいなまれる。まあ、これもよくある話だな。
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