お千鶴さん事件帖「花火」第三話③/3 完結編
それから程なく橋蔵が深川六軒堀の長屋へ帰ってきた。引戸を開けた橋蔵の濃い影は真下にあったから酷くあわてた。気付かないうちにお天道様はとっくに頭上にあったようだ。続いて檜山の姿も目に入った。
「飯の支度をしてくれないかな、お千鶴」
「はいよ、おまえさん。檜山様もどうぞ。毎度冷や飯しかありませんが、いい頃合の漬物がありますよ。実は私もお腹がぺこぺこなんです」
と、苦笑して檜山を招きいれた。よくあることである。
「ぜひ、お相伴に預かりたい」
では、といつもの口癖を発しながら檜山はいつも礼儀正しい振る舞いだ。こんないい人がなぜ一人身なのだろうと不思議でならない。丁寧すぎる話し方や接し方は、実は人嫌いからくるのではないかと、思うこともある。
いつか本当の世話焼きばあさんになる前に「娘の恋心を恐れるな」と言いたくて仕方がない。
千鶴がかまどの端で飯の支度を始めると、橋蔵は茶の準備をしてくれた。こういう細かい気遣いがこの人のいいところだ。夫婦で共稼ぎができる訳である。
「お漬物は、おまえさんの好物のナスですよ」
小さい声で橋蔵にささやいた。
三人が各々の箱膳を囲んで、茶漬けをサラサラやっていると、ゴクリと飲み込んでから檜山が愛想を言った。
「本当にうまいなあ。冷や飯おおいにけっこうです」
冷や飯と茶を載せた膳が三つと、真ん中にナスの皿が一つあるだけだ。それでも、千鶴には慎ましい昼げを朗らかに迎えられることが幸せだと、つくづく感じるひと時である。もう一つ喜びが増えた。それぞれに立場は違うけれども、同じ事件を語り合えるようになった仲間だと思えることが、真に嬉しい。
橋蔵が好物のナスを頬張り舌鼓を打ったのを横目で見やる。
おもむろに檜山が事件の話を切り出した。来た来た、と千鶴の心の臓をかすめた。
「佐吉は怪しいと思うかい? お千鶴さん」
「わたしはねえ、檜山様。だいたい解いたのも同然」
と嘯くと、橋蔵と檜山が顔を見合わせてから、首を横に振り目を伏せた。信じていないことは明らかである。橋蔵が咳払いをしてから、神妙に千鶴をなだめにかかった。
「奴は確かに怪しい。大きな酒問屋の次男坊らしいが、親も手がつけられず勘当同然になっている。調べれば調べるほどに、くせ者だ。知り合いの一人が言うには、最近お咲ちゃんと別れてあげるから形見として着物をくれと執拗に迫っていたそうだよ。奴は何を考えているものかと気持ちの悪い話だったからよく覚えていたそうだ。お千鶴、それでも、この調べは行き詰ったようだ」
橋蔵は箸を置いて、汗をふいた。檜山はつまんだナスを呑み込んでから付け加えた。
「佐吉にはあの場に居ようが無い。新川の家に居たのだと本人は言っている。それを裏付ける話も次々と出てきた、というのが残念ながら今日わかったこと。なにより、私は一応火の見櫓のてっぺんに行ってみた。ホコリが雪のように積もっている中にくっきりと残っていた足跡を寸分違わず覚書に記しているのだが、一種の足跡しか残っていなかった。だから、たった一人で死に向かったのだという証ですね」
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