お千鶴さん事件帖「片恋」第二話①/3 無料試し読み
正月の月がまだ幾日も過ぎない日のことだ。
昼下がりの日差しは強いようだったが、普請の良い戸口でもカタリ、と音をもらすほどの風が吹いていた。清兵衛が出かけようか止めようか、と思案していると、掃き掃除をしている小僧とぶつかり、よろっと後ずさった。いきなり、頭の後ろから突き刺すような女の声がした。
「邪魔よ! あなたって、ほんと、うっとうしいわねえ。店にいても、奥にいても」
清兵衛は、はっと振り返り妻の由の着物の裾辺りを見てから、また引戸に向き直って清められた大店の土間へとさらに目を落とした。今日も由は見事な富士額の下の眉間に皺を寄せながら、冷たい眼で言い放っているのだろう。それは見なくてもわかる。そして、まだ始まりにすぎない。
「ちょっとは役に立つことを考えられないのですか? 問屋仲間の新年の寄り合いには必ず出てくださいよ、形だけでも。あっそれから養子の件はこちらで全て段取りしますから。もう、私ばかりが忙しいったらありゃしない……」
彼女は相変わらずの大きな声で、どなりちらしている。昔はこんな女じゃなかったのに、と清兵衛は気付かれないように、ため息をつく。惚れぬいた娘だった頃の由の姿を、今でもありありと思い浮かべることができるのに、と胸の中で苦笑いをしながら、体は凍り付いていた。
腹いせに、そばにあった、ちりとりを蹴飛ばすことぐらいできたかな、と後で悔しがる。
日本橋本町の薬種問屋と言えば、誰でも知っている経文堂の婿養子が清兵衛である。最近にわかにたくわえた腹の肉を押さえながらひとまず、すごすごと奥へと退散する。やはり逃げるのが一番である。本来なら働き盛りの三十を少し回ったばかりの齢だ。中庭にある雪中の花であるロウバイがあちこちに花芽をつけているのを、通りすがり目にする。と、同時に「出かけますから、後をよろしく頼みます」という由の声を背中で聞く。「行ってらっしゃいませ」の一斉の掛け声が木霊する。つまり、奉公人や小僧が大勢いる前でも、所かまわず、由は清兵衛を叱咤罵倒するのだ。
この大店は角地にあり、土蔵が二戸前。二階造りの店とは別に中庭を隔てて平屋建ての住居があった。住居には横に門があり正面が表戸口である。右へ日除け用の厚い土塀に沿って廻ると、向こうに屋根をかけた釣瓶井戸が、ある。その手前の左側に勝手口があった。家族や内客、諸商人、職人などが出入りする所で、客の多い店だから、下足番を兼ねた小僧が、一人六畳の上がり端に座っていた。
「いつも、ご苦労さんだねえ、さぶや」
本当はやらせたくないような仕事なのだが、と内心思っている。小僧はまだ、十かそこらの童で、顔を見上げると、くしゃくしゃの笑みを浮かべた。三郎という名だ。
「旦那さんだけです。声をかけてくださるのは」
と、だけ言って、一瞬手を止めた仕事をまた律儀に始めた。それは、小粒金や小判の入った麻袋を板の上で叩いては、持ち上げ、また叩くという単調な繰り返しを延々と続けることだった。そうやっていると微量の金が麻袋に付くので、数日後その袋を焼けば溜まった金屑が取れるという仕組みだ。役人に見つかれば悪いことなのは承知だが、両替商ならどこでもすることらしいと、由が聞きつけてきて、暇な小僧にやらせている。
ケチくさい女房だと思うと、胸の悪くなるような嫌気が尚増す気がした。
――それにしても、あんな小僧の方が私よりも稼いでいる!
と、肩を落とし自室へと向かった。由に言われる小言には、ほとほと嫌気がさすけれども、正しいと思えてくる。ないがしろにされている居心地の悪さと、己だけが遊んで暮らしているような引け目に責められるのだ。
俳句の師匠宅にでも出かけようとしたのが、由と鉢合わせとなり出鼻をくじかれた格好になった。
由は清兵衛と同い年だが、この大店の一人娘として、勝手気ままに育ったお姫様のような立場である。清兵衛は十五の齢よりこの店に奉公に上がった。昔は細くて、なかなかの男前であると周りから随分騒がれたものだ。でも、遠くから目を細め、じっと見つめることしかできない由を、長らく心に秘めていた。
五年ほどたったある日、皆が噂するような外見目当てだろうか、それは清兵衛にも本当のところはよくわからないのだが、由の方から慕ってきたのだ。最初は面食らったものだ。由は半ば強引に両親を説きふせ、あれよあれよという間に清兵衛を婿に迎えた。清兵衛はもともと気は弱いが真面目な性質だったので仕事はよくできたから、先代にも気に入られてはいた。
降ってわいた縁談で望外の伴侶とともに、本物の金塊を掴んだと当時は舞い上がった。しかし、あれから十年、妻には愛想を尽かされ、店の舵も切れない。さぶのこしらえる金屑ほどの価値も無い、と清兵衛は眠れぬ夜を過ごすことが多くなった。
先代夫婦は仲が良かったが、主が二年前に心の臓の病で、あっけなく亡くなった。あまりに突然のことで、店の引き継ぎどころではなかった。
その後まもなく、清兵衛の姑である梅はすっかり附抜けたようになり、夢と現をさまよい、新しいことは何一つ覚えられなくなった。
それが引き金となったようで、妻の由にしても心の臓の具合が悪くなりときどき寝込む日も近頃では増えた。
子宝には恵まれず、養子縁組の話が持ち上がり、従弟の子沢山の家からもらう手はずになっていた。
「子供ができたら、父親の役目はあなたにしかできません。商売のことも、あなたの背で教えてやってくださいね」
と、清兵衛に話していた。浮き浮きした由の明るい表情が昔に戻ったようで、万事は快方に向かうのではないか、と思われた。
その子が暮れに生まれて数日で、質の悪い、はやり病で亡くなってしまった。それやこれやで、もともとイライラの多い由だが一層機嫌が悪くなった。また、泣いているのを見られたくないようで、部屋に籠った。
先代には、商いの腕を見込まれていたので、清兵衛の一番の不満は由の不機嫌さではなく、仕事を全く任せてくれないことだった。話が違うではないか。小僧の使いのような扱いでは、信用などあったものではない。なぜ、由が商いの道に目覚めてしまったのかが、皆目わからない。自分の店になったはずなのに、今いったいどれくらいの蓄えが、あるのやも知れない。
清兵衛にあてがわれた十畳の部屋に入り、実の両親の遺影に手を合わせた。すると隣の座敷が急に騒がしくなった。
「清兵衛があたしの財布をまた盗んだ。早く捕まえておくれ! あの子はどうしようもない子だよ。返しておくれー」梅というより梅干のような老婆が、隣の部屋から飛び出したようだった。
「大奥様、しっかりなさってください」と、女中のみつが後を追い、なだめる声も聞こえる。いつものことながら、清兵衛の心はふさいでゆく。
最近になって清兵衛が、その類の盗人でないことが、ようやく家の者に理解されたから、これでも以前よりは心が穏やかになったというものだ。
しかし、先代の秘かに集めた高価な書画骨董を売りさばき、堀江町の小料理屋に勤めるカツに貢いでいることは内証である。だから、盗むという言葉に、びくびくしている訳が無いでもない。
――やれやれ、何という家だ。
こんなに気が滅入るときには、小料理屋「しらはま」にでも行くに限ると思いついた。障子を閉め出て行くときに、みつが、哀れみを含んだ瞳で清兵衛を見つめた。入れ違いに、大番頭の吉次郎が心配して入ってきた。彼は昔から梅に取り入っていたが、清兵衛とは気が合わない。妬まれているのではないかと、感じている。また、どこまで清兵衛の悪事を知っているのだろうかと疑う気持ちもある。
綿入りの羽織りを着込んで背を丸めながら、逃げるように勝手口から出て、道を急いだ。その横を飛脚が軽々と抜いていった。
日本橋から堀江町はさほどの道のりではない。幾重にも張り巡らされた堀のひとつ堀留川に接していて、まるで堀の中の島のような所だ。
団扇河岸とも呼ばれるぐらいに団扇問屋が目立つ。そればかりではない。日本橋を背にして江戸橋の上より眺めれば、大小様々な橋の数々、河岸をぎっしりと埋める商家の倉庫群、繁華な雑踏は、誠に壮観としか言いようがない。江戸生まれではないが、江戸住まいになった清兵衛には、誇りに感じられる景色だ。
夜などは、橋を往来する各種の車の灯、岸の灯火、船の灯などが、一斉にきらめくのだ。あまりの明るさに初めて目にしたときは腰を抜かすほどに驚いたものだった。
「しらはま」に着くと、いつもの小座敷に通された。トントンと勢いよく階段を駆け上る音に心が躍り、カツは障子を開けて入ってくる。そのひととき、小汚い座敷が華やいだ気配に包まれるのだ。
カツはまだ二十歳そこいらだが、幼い頃から苦労を重ねているせいか、しっかりしている。
「清さん、ここのところご無沙汰でしたねえ。夫婦仲がよりを戻しちまったんじゃないか、と気をもんでいたんですよ。あたしのことなんかちっとも気にかけてくれないんだから。これって、片恋っていうんだわ」
と、悋気もほどほどにして可愛い笑みを浮かべた。カツは銚子の載った盆を畳に下ろした。あわてて火鉢の火を入れながら、
「今年はやけに冷えるわ。それにしても冴えない顔色ですね」と、清兵衛の顔をちらりと横目で流し見た。普段の目は丸くて生き生きとしているのに、ぐっと翳りを帯び、色気を感じさせる。
火箸を取って、替わってやると、にっこりと微笑む口元も愛らしい。銚子から注がれた温かそうな酒を見て、早速ちびりと、やり始める。
「正月早々は来れないじゃないか。これでもいろいろと野暮用があるのだよ。悪かったねえ。会いたくてしかたがなかった。ここにいる時だけが私の安らぎなのだから」
今日もまた怒りやら悔しさやらに苛まれた。
(もう、私は駄目だーー)飼い殺しと言っていいと思う。夫婦になった頃の由は情の深い女だったのだ。何が不満だったのだろう、清兵衛には見当もつかない。これなら、奉公人として働いていた頃の方が幸せだった、とすら思える。今では己をわかってくれているのは、この女だけだと心底感じながら、腿の上に置かれてあったカツの手を優しく握った。
「聞いておくれ。吉次郎が耳にいれたんだろうかねえ。今朝などは『半人前のくせに、一人前に女を囲っているんでしょ。知っているのよ』と、にやりと笑ったのだよ。その顔の恐ろしいことと言ったらなかった。口が耳まで裂けそうだった。あれは鬼の生まれ変わりに違いない。
もう、二人の仲がこじれてから二年はたってる。おカツ、おまえと知り合ってまだ半年たつか、たたないかだよな。もう充分に義理は果たしたと思っているのに」
深いため息をつく清兵衛に向かい、カツは座ったままさらに、にじり寄り、ひそひそ声で言った。
「あたし、ずっと考えていたの……。一思いに、お由さんを亡きものにしてしまいましょうよ。もう、それしかない。あたしも清さんと一緒になりたいし。あの鬼女は絶対に離縁しないだろうと思うの。清さんが、店を放り出されるのも、それはそれで困るわ。もう骨董品だって底をついているのでしょう? ううん、お金のことじゃないのよ。二人のこれからのためよ。鬼女には死んでもらいたい。それしかない」
「かわいい顔をして、なんと、恐ろしいことを言うじゃないか」清兵衛は、カツの手をとっさに放し、猪口に手を伸ばした。
「だって、このままじゃ清さんが腑抜けになっちまうじゃないか。息の根を止めることだけが人を殺めることじゃないだろう? 生きて魂を抜き取られるってことは殺されるに等しいことだよ。そう、思わないかい? 清さんが、可哀想すぎる。やられる前にやらないと、気弱な清さんがたいへんなことになっちまう。あたしはそれが一番恐ろしいんだよ。清さんは、大店の主らしく、店を切り盛りしなくっちゃ駄目」
一息でまくしたてたためか、舌なめずりしたカツの唇が光を帯びて艶かしい。
「そうかもしれない、苛め抜かれて気が変になりそうだ。優しいことを言ってくれるんだね、おカツは」
二階の離れにある小座敷は上得意である清兵衛に、いつもあてがわれる。外に音が漏れにくい。冷えた心と体は十分に温まってきた。カツの長いまつげが震える様子を見つめていると、白粉のいい香りが漂ってくる。清兵衛は猪口に残った酒をぐっと飲み干してから、右隣に寄り添うカツの右肩を抱き左手を脇の身八つ口の中へと滑り込ませた。慣れ親しんだ滑らかな若い肌が掌の中にある。
「いやよ」とカツはいつになく、激しくつっぱねた。まだ話し足りないらしい。背筋を伸ばして、清兵衛を真正面に見据えて、話し始めた。
「今は大事な話なんだから。聞いてちょうだい。お店には薬がたくさんあるのでしょう。少しずつ料理に盛るというのはどうかしら?」と言うと、カツは宙を見つめてさらに考え込んでいる様子だ。
「いけませんよ、そんなこと。わたしが真っ先に疑われる」清兵衛は少しむっとして答えながら、カツから体を遠ざけた。
「そうかしら? お由さんは心臓が弱いのだし、見つかりっこないわよ」
「料理の支度やら全部を女中達が取り仕切っているから、私が台所をうろうろすると怪しまれる。私たちはもうふたりっきりで食事をしていないのだ。由は店の者といる方を好むので、今では自室でひとり食べている」
「ええっ? 信じられない。そんな仕打ちってある? 仮にも主でしょう?」
「そうなのだよ。一緒にいて、息がつまるよりも、むしろ別々の方がいい。夫婦仲が悪いことは、店の中では周知のことだ」
「なんて、哀れなの……」
カツは空になった杯に酒を注ぎながら、泣き出しそうな顔になっている。それは偽りの無い無垢な表情に見えた。
「だったらさ、最近あちこち押し入ってる盗人集団に似せたらどうかしら?」
言葉の恐ろしさと、まだあどけなさの残るカツの顔の、どちらを信じてよいのかうろたえながらも、結局清兵衛は全部をひっくるめて許してしまう。再び、カツの肩に手を置きながら耳元にささやいた。
「そんな恐ろしいことを考えないで、もう少し我慢しておくれ。決して悪いようにはしないから。時をみて一緒になろうな。約束する」
「清さんなら、できるはずよ。きっとうまくいくように、準備万端に練るから、やってね。約束よ!」
かつがれたような気になりながらも、清兵衛は、「わかった」と答えるより仕方がなかった。
その言葉に、カツは両手を上げ、清兵衛にすがりつき、唇に吸い付いてきた。既に酔いの廻っているカツの体がぐにゃりと覆いかぶさる。白粉とは違うカツ自身の放つ甘い匂いが一気に清兵衛の体の奥深くまで貫いた。
(一)
十日後。
千鶴は朝の験担ぎにお天道様を仰ごうと、勢い良く腰高障子を開けて驚いた。
見慣れた深川の町がうっすらと、粉をまぶしたような雪景色に一変していたからだ。昨夜、急に冷え込んだと思ったら、遅くに雪が降り積もっていたらしい。静まり返る、辺りの気配に息を呑んだ。
しばし見とれてから、寒さも忘れてハーっと息を吐いてみる。白い霧を作ることができるのが面白くて仕方が無い。
――後で雪だるまも作りましょう。
一人微笑んで湯気の昇る勝手場へと戻る。朝げの支度を全て整えてから、亭主の橋蔵を起こしに行った。橋蔵は寝ぼけた声で返事をした。布団から飛び出していた右腕をぶるっと、寒そうに震わして布団にしまうと、また眠ってしまう。そのとき、引戸をたたくいつもの音が耳に入った。
「橋蔵親分、事件ですよ」
同心の檜山は侍の端くれで、もちろん子分でもないのに、敬意を表して、いつも橋蔵を親分と呼ぶ。こんなに朝の早くからの登場は珍しいことだった。大わらわで玄関先の檜山へ挨拶に出た。
「おはようございます、寒いですね。こちらの火にあたってください。何が起こりましたか?」
火鉢の炭をつつきながら招きいれた。檜山の細みの体が震えているのに気付き、橋蔵の新しい半纏に手を伸ばし、そっと肩を覆ってやる。手を温めて一息つくと、
「永代橋横の佐賀町で心中のようです。男は経文堂の主で清兵衛。女はその情婦で、おカツ。おカツの長屋で二人は服毒死しているのを、大家が発見したということです」
「エッ! 心中ですか。あの経文堂? 経文堂は庭の手入れに、父が昔っから行ってましたので、よく知っています。おまえさん、おまえさん」
と、呼びながら橋蔵の仕度を手伝いに、一度居間を離れた。千鶴の育ての父は植木職人を率いる棟梁をしている。
「面目ねえ、面目ねえ。幼な馴染みと昨夜は飲みすぎて」少しばかり声を張り上げて隣の部屋に聞こえるように橋蔵が言った。
橋蔵が縞の帯を直しながら歩くのを、千鶴は背中から襟元を調えてやる。襖を開けると照れ笑いしながら何度も弁解した。
「旦那、遅くなりやした。寝坊しちまったな、お千鶴も一緒に行くか?」
最近では、千鶴も御用の筋の手伝いを許された。もちろん世間には内密のことだが。
二人の後を追い、早速事件の場へ駆けるように向かった。小名木川にはうっすらと氷がはっている。隣長屋の子らが、犬と一緒に雪の上を転がりまわる様子に目を細め、橋蔵の袂を引っ張った。
道すがら檜山が首をひねり、顎に手をやり思案の表情でブツブツ言い始めた。
「解せない……」
「旦那、難題でやすかね?」橋蔵が檜山の独り言と知りつつ答える。
「心中にしちゃあ、解せないところがいくつかあってね。橋蔵親分にもぜひ検分してもらいたいんですよ、ああ、お千鶴さんにもね」
「檜山さま、二人はどんな亡くなり方ですか?」すかさずに千鶴が聞く。
「服毒死のようだから、血の海ということはないよ、お千鶴さん、安心して。その代わり吐いたものがそこらに広がっていて嫌な匂いだそうだ」
ちらりと千鶴に目配せを送る。檜山は神経質な男なのか、無神経なのか時々わからなくなる。岡っ引は亭主なのに、検視に立ち会う千鶴自身の無神経さは、謎を解くための手段であるのだから、と棚に置く。
佐賀町の鶴亀長屋は既に幾人かが、木戸の前に集まっていた。表通りから入って二軒目の家のようだった。檜山はまず、知らせに来た近所に住む若手同心と二言三言話してから、事件のあった部屋の風上に立った。その後ろに橋蔵、そして千鶴は首だけを橋蔵の背後から出して、覗き見た。
二人は折り重なるように絶命していた。おカツは仰向けに、清兵衛はうつ伏せに横たわっている。おカツの口も目も大きく開き、顔は黒紫色に変色していた。
他の岡っ引連中が、清兵衛もカツの横に、仰向けに寝かせた。予想以上に酷い悪臭が立ち込めている。
「両人ともに口、目、耳、鼻の中に出血が見られるので、毒が使われているのがわかる」
「ひゃっ」と、千鶴が小さく血に反応した。血が異常に怖いが、これでも以前よりも慣れてきている。檜山がカツの口を、千鶴に見せるかのように更に開かせたのだ。
何をする気だ、正気の沙汰かと、いぶかった表情で、ついに後じさりした。
「唇は破れ、舌はただれ、口内の肉も黒紫色です」
仏さんから手を離した指先で、カツの手を指差し付け加えた。
「手の指の爪も真っ青でしょう。二人とも、口に入れたのは烏頭(ウズ)や附子(ブシ)と呼ばれるもののようです」
「つまりトリカブトって奴ですね」と橋蔵が清兵衛を検分しながら言った。
「わあ、ひでえ。お千鶴、もう帰っていいぞ。ひどい死に様だ。毒を食らって死ぬのだけは止そうなあ。頼むよ」
橋蔵が悲鳴を上げながら千鶴を気遣ってくれているようではある。頼まれなくても、自害はまずしないだろうと思う千鶴が顔をしかめる。
場数をいくらか踏んだせいか、気を取り直してざっと部屋を見渡してみる落ち着きが、以前より早く出てきたように思っている。
相当苦しんだのか、所帯道具があちらこちらに散乱している。鏡も落ちて割れているので注意しなければと、とっさに足元を避けた。この長屋はおカツの家なのだから、清兵衛の持ち物は少ないのだろう。鼠色の巾着と上着ぐらいだろうか。六畳一間で、隅に布団屏風があり、きちんと二組の布団が畳まれている。徳利と粗末な茶碗が二つ転がっている。
――この中に毒を入れたのかしら。飲み干した後どんな気持ちだったろう。
千鶴が乳飲み子だった頃から世話になっている寛西先生が、検視に呼ばれたようで、のそりと顔を出した。少し前から檜山の特別の頼みで御用の手伝いをしているのを知っている。
「おや。お千鶴ちゃんまで、お調べかい?」
と、不思議そうに見つめるので曖昧に頷いた。それから、すぐに酒の残りをほんのわずか、飼っているネズミに飲ませたところ、何の変化もない。寛西は、毒見用にネズミを生け捕りにして、常時数匹を飼っている。よく消毒してあるので病などを伝染するというようなことは無い、と断言しているが、日に一度水を浴びせる程度のようだった。
橋蔵が長屋での聞き込みによる成果を、檜山に話しているのが聞こえた。
「やっぱり、そうでしょう? 部屋の奥にはカツの洗濯を終えたばかりに違いない衣類が、きちんと畳まれ翌日の用意がされているし、昨日にはコメの注文も頼んであったと言う。近所の者の話によれば、何かいいことがありそうなことをほのめかしていたことまで、わかりやした。カツに心中するわけがあるとしたら、道ならぬ恋ぐらいなもんで。でも、そんなことで命を絶つ女には見えねえって、皆が口を揃えるもんで」
千鶴が解せぬ表情で尋ねた。
「檜山様、毒はどこに入れたんでしょうね?」
「もう少し調べてみないと。今のところ無いのが変だ。薬の包み紙から直に飲んだのなら、この周りにあるはずなんだが」
「トリカブトの毒は相当苦いらしいので、味の濃いものでもなかなか紛らわせないと聞いたことがあります。泥酔した後に酒にでも混ぜるか。承知の上の自害なら、味なんか関係ないのでしょうね」
橋蔵が鼻をつまんで、
「二人とも、酒の匂いがぷんぷん。朦朧としてくりゃあ、一飲みぐらいは、できるもんかなあ」と腕組みをしている。書物にはいろいろと記述はあるが、死人に口なしで、本当のところは誰にもわからない。
「では、酒瓶やとっくりから毒が出れば、謎がひとつ消えます。カツの着物まわりにばかり吐いたものが多いのは、毒のせいではなくて、吐き出そうとしていたのではないのかと気になります。つまり、飲まされたのかと」
意を決して、千鶴も鼻をつまみながら見て回る。
「確かに。トリカブトのせいで吐くということは考えにくい。短い間に、気が遠くなり体が動かなくなるらしい。清兵衛の無理心中ってとこかなあ、お千鶴」
「清兵衛さんのおかみさんは、かなりきつい人のようで、悪い噂を耳にしたことがあります。家でひどい目にあっていたとか。人の口に戸は立てられません。清兵衛さんには、死にたくなる理由がありそうですね」と、檜山。
三人の中で一番歳若いとは言え、侍でありながら町人にこのように丁寧に話す者は他に見たことがない、と常々千鶴は不思議がる。現場でも同じだ。
千鶴は二人の話をよく聞きながら、目は部屋の中を忙しく見回していた。立派な神棚があり、その下には小さく納められた仏壇、姿見だけは上等のものがあったことを除いて、普通の長屋とさほど変わらないものばかりだ。
「おカツさんは身寄りが無かったと聞いていますが?」
「育ててくれた、叔母がいたそうですが二、三年前に亡くなったらしい」
檜山の返事に、二つ対になった位牌を見て納得する。寛西のうなるような声が同時に響いた。
「この部屋にある食べ物の中には、毒らしきものはないなあ。二人の口の中にのみ存在しているようだ。ただれ方が激しい」
台所にある水瓶も調べ終えたようだった。首に縄をつけられたネズミは相変わらず勢い良く走り回る。
「この毒は、口にした、ほとんどその場で、体中にまわって死に至るんですよね、寛西先生?」
と、千鶴は体の向きを変えて尋ねる。
「そうだな。他所で毒を飲んで苦しみまわりながら、ここに帰ってくる、というのは有り得ない」
「毒を何かにくるんでおいて飲ませるとか?」
「味の苦さをごまかせるが、かさが高くなって、そんな奇妙なもんを知らぬうちに口にしようとするかな?」
「確かにそうですね。口内が著しくただれている点からもあり得ない。毒は口を通ったはず」
誰かが、毒入りの飲み物や器を持ち帰ったとしたら、とも考える。そうだとすると、自害には見せかけられないから意味がわからない。千鶴の頭は空回りするばかりだった。心中だとしても、毒物はどこに仕込んだのだろうか? 包み紙はどこにいったのだろうか?
「先生、仏さんになったのはどれくらいの時ですか?」橋蔵が尋ねた。
「手足が固くなっているところを見ると、三刻かもう少し(六時間と少し)くらい前かと思われる。夜九ツあたり(十二時頃)だろうか」
「その辺りの時間帯に、物音を聞いている者があるかもしれないので、長屋中を、もう一度まわってみます」
と、橋蔵は、檜山をちらりと見て再び軽い足取りで駆けて行った。檜山は決めかねているような、考え込んでいるような、いつもの解せないという仕草だ。辺りの、めぼしい物品を採取しては、丁寧に懐紙に包んで仕舞うのは、いつもの作業らしい。それでも書置きのようなものは無さそうだった。
「先生、心中とみていいものでしょうか? 誰かによる殺しとみて、探索をするべきでしょうかね?」
「心中だろうがなあ。それにしても妙だ」寛西も頭をかかえてしまった。
千鶴は部屋の隅の風呂敷包みが気になり、檜山の許しを得て開いてみる。すると小判が五十両ほど入っていた。
「おお。清兵衛が、お店から持ち出したんだろうか? 大店にとってもこれは大金だなあ。こんなに金をおいて、死ぬのか?」
寛西が横から覗き込み、裏返ったような大声を上げた。
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