【ノイズを愛そう】~2024ノンフィクション大賞『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』×インクルーシブ教育・豊中市立南桜塚小学校訪問で考えた一番大切なこと~
1.働いて本が読めなくなった
大きな本屋でブラブラし、『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(三宅香帆、集英社新書)が入口に大量に積まれているのを見て気になった。久しぶりに「呼ばれた」という感覚があった。
「この本を読めるということは、働いていないということかい?このタイトルおかしくない?」とケチをつけながら、私はサッとこの本をお買い上げした。呼ばれたら買わねば。
本が読めなくなった理由は、私の場合シンプルである。
本を読むと、生活に支障が出るから
特に物語はイケナイ。もう完全にアチラの世界に行ってしまうので、裁判所に行けなくなる。起案(裁判所に提出する書面を作成すること)もできなくなるだろうし、契約書の文字もかすんで何も見えなくなるに違いない。打合せも上の空になるはずだ。それでなくても不規則なのに食事も摂らなくなるだろうし…。
仕事を続けながら読書したら、マジで<読書死>してしまう。
かくして私は、本を読まなくなった。正確には、「途中で中断できる本」しか読まなくなった。つまり、ビジネス本やら自己啓発本である。
それらは「本」であって「本」ではない。そんな感覚がずっとあった。
『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』を読んで、その理由がクリアになった。
2.『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』はこんな本
とにかくすごい迫力。
前半は「時代考察」×「労働/仕事」×「読書」について、それはそれは詳細な引用とともに紹介される。1冊で何冊も本を読んだ気分になるし、読んだことがある本の時代背景を知ると、タイムスリップしたような気分になる。当たり前だが、何十年もの長い間、読み続けられてきた本にも、最初に出版された時がある。そして、その出版された経緯、その本がベストセラーになっていく「理由」が時代背景とともにある。それがとても面白い。
そして後半にかけて、盛り上がっていく。
「やりたいこと」「好きなこと」を重視するキャリア教育の先にあったもの、情報や自己啓発書が階級を無効化させる…
今まで考えたことはなかったことが、俯瞰で語られる。唸る。
そして、「求めている情報だけを、ノイズが除去された状態で、読むことができる。それが<インターネット的情報>」と著者はいう(201頁)。
私が特に目から鱗だったのは、ノイズ、の捉え方である。インターネットサーフィンを思うと、インターネットはノイズの宝庫というイメージがあった。
でも言われてみれば逆である。最短でノイズなく情報にたどりつける。
じゃぁ、、一体ノイズって何?
読書は人生の「ノイズ」なのか?
結局、前半の壮大な記載が、「自分以外の文脈を知る」=ノイズを体験するという構造になっていることに気が付き、ほほう…と改めて唸りながら読了した。タイトルにケチつけてごめんなさい。
3.あれは「ノイズ」を拾っていけという助言だった
この本を読みながら、私は新人弁護士の頃、事務所の創設パートナーの一人である大先輩が言っていたことを突然思い出した。
「自分が弁護士になったころは、パソコンはもちろんワープロもなく、書面はすべて手書きであった。裁判例も書物をひたすら読んで、調べたものだ。諸君はやれ判例検索だとか、図書検索だとか騒いでいるが、あれはいかん。ポンと検索してポンと答えが出るかもしれないが、実は大切なのは前後にある。その判例を読むだけではなく、類似の判例、前後の解説、それらにすべて目を通してこそ、血となり肉となる。」
これは「ノイズ」のことだ…。裁判所に出す書面でその判例を引用するためには、「その判決文」があればよい。しかし、その判決にはそれに至る文脈がある。その文脈を知って初めてよい弁護活動ができるというものだ。
昨日、私は口走ったばかりである。
「〇〇の図書検索に、AI機能が追加されて、めちゃくちゃピンポイントで本を探すことができるようになったよ。ホント助かる!」
本当に助かるのですよ。2時間探して見つけられない本を30秒で見つけられる。何たる時間の節約。ありがたい。
しかし、「もしかすると全体像が分かっていないかもしれない」という不安は消えない。現代の弁護士は少なからずそうではないか。
それは答えに早く辿り着きすぎて、「ノイズ」がなさすぎるからかもしれない。
4.インクルーシブ教育の最先端(最古参)の小学校を訪問して感じたこと
私はこの本を少しずつ読んでいた今週、大阪の豊中にある小学校を見学させていただいた。〈インクルーシブ教育〉という言葉さえない頃から、何十年も一人も置いていかない教育に取り組んでいる学校である。
私は今、プロボノ(職業上のスキルを活かして取り組む社会貢献活動)として、ある少年をサポートしている。彼には重度の障害があり、誰かの力を借りなければ移動はできず、ごはんも食べられない。お姉ちゃんと一緒に地域の学校に入学した笑顔のかわいすぎる男子↓である。
私は彼の学校生活の環境調整のため、管理職の先生やら教育委員会の方々との関係者会議に出席して、何とか同じ方向を向いて前に進めていけないかと、試行錯誤、四苦八苦している。1年数か月で変わったこともたくさんあるが、全然かみ合わないところも多い。
その一つの答えが「ノイズ」だと思った。
こちらが伝えたいことの多くは、多分「ノイズ」なんだ…
例えば、給食でペースト食をどうするかというテーマなら、「どのようなかたさで」、「どのような道具を使って」という議論(情報ともいう)は必須である。でも、私たちが先に共有しておきたいのは「給食をみんなと一緒に食べることの意味」だったり、「給食に対する彼の想い」だったりする。そりゃ、このノイズを排除しても、給食を食べることはできるかもしれない。でも、そこ(ノイズ)が分からないと、「地域の学校で一緒に育つ」の意味が半減しないだろうか。食べさせる「方法」だけ伝わればよいわけじゃないという気がしている。
他方で、見学した南桜塚小学校である。どんな学校かは検索してもらえばわかるが、私の感想は「ノイズしかなかった」。なんというか、いろんなものが「はみ出して」いた。
まず、校長室にちょっとカオスなくらい子どもが出入りしていた。ウーパールーパーもいるらしい。校長室なんて、鈍器みたいな時計が置いてある秘密の場所みたいなところだと思っていたから驚いた。
廊下には机や家があるし、立つ姿勢を保持する椅子?がドーンと置いてあるし、点字を作る機械は一人分の机を占有している。
圧倒されて、圧倒され続けて、ちょっと涙も出てきてしまって、「弁護士」で来たのに、自分もノイズだらけの感じになった。
すべての教職員はすべての子どもの担当である。
どうすればできるのか、ひたすら考える。
正しさや方法とかよりも、どんな風にすると楽しいか?とか、不登校の子が来たくなる教室とか、そんな答えのないことを考えているようだった。廊下には危なくないように射的コーナーが作られていた。先生のアイデアらしい。
子どもがやりたい危ない遊びをどうやって実現できるのか。なぜ子どもはそれがしたいのか。
背景や文脈がすべてのことにある。
私は小学生の時、初めて母が買ってくれた文庫本、灰谷健次郎の「兎の目」を思い出していた。
人と人がかかわる以上、「文脈」は大切なのだ。相手の文脈と私の文脈が交わるところに「インクルーシブ」はあった。
5.ノイズはいつか音楽になる
校長先生は、部落問題についても話してくださった。中高時代、部落問題について考える特別授業が何度もあり、「大変やな」と思ったが、自分の生活から想像ができないエピソードの数々はあまりピンとこなかった。普段の授業とも、もちろん受験勉強とも関係がない「ノイズ」であったあの日の授業を卒業してから一度も思い出したことはなかったけれど、25年以上の時を経て、私の中で「音楽」になった。「ノイズ」が力を発揮するのは今じゃないかもしれない。
でも「ノイズ」の中に感動があり、原動力がある。ノイズを排除し、役に立つことばかりやっていては音楽が聴こえなくなる。
私は彼に関わっても「弁護士報酬」を得るわけではないから、これは仕事という意味ではノイズなのだろうけれど、この1年数ヶ月、私はたくさんの音楽を聴いた。途方に暮れることはあっても辞めたいと思ったことはない。
私が仕事をしながら物語に没入するには、相当の覚悟と工夫が必要だけれど、諦めるのはやめようと思う。
私は「ノイズ」を愛したい。
皆さんも「ノイズ」をもっと愛しませんか。