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明治維新の立役者 岩倉具視のこと(洛北・岩倉紀行)

 岩倉具視(いわくらともみ)の写真をみると、公家とは思えぬふてぶてしい顔つきである。今回は彼に焦点を当てて、その活躍を検証してみよう。

【目次】
1.洛北・岩倉の里
2.明治維新の立役者 岩倉具視のこと

1. 洛北・岩倉の里
 京都市に北から流れ込む高野川と賀茂川が合流して、鴨川になるあたりが出町柳(でまちやなぎ)である。ここから叡山電鉄に乗って鞍馬方面に向かうと、宝ヶ池の先に岩倉の里がある。

 ここは磐座(いわくら)信仰(天から降臨した神が巨石に安座する)に根ざした古地で、地名もこれに由来する。

 比叡山を間近に臨み京野菜を採り入れるのどかな風景が広がっているが、平安以降水も空気も綺麗なこの地は貴族の静養地だった。

実相院(実相院のHPから)

 寺社の所有地も多く、実相院(じっそういん)は寛喜元年(1229年)、近衛基道の孫、静基(せいき)僧正による創建で、はじめは紫野にあったという。

 応仁の乱の戦火を逃れて当地へ移ったと言われている。戦国の兵火で多くの伽藍を焼失したが、足利義昭の孫、義尊(ぎそん)僧正が後陽成天皇の寵愛を受け、皇室と徳川家の援助によって再興した。

 以後代々の住職は天皇家のゆかりの方々が務めたので、門跡寺院と呼ばれている。新緑や紅葉の名所であり、部屋の黒光りする床に木々が映り込む「床みどり」「床もみじ」は特に名高い。

床みどり(実相院のHPから)
 
 


床もみじ(実相院のHPから)

 実相院のすぐ傍に質素な古民家が建っている。これが岩倉具視幽棲旧宅(ゆうせいきゅうたく)で、公武合体のために和宮降嫁を実現させた彼が、尊王攘夷派の弾劾で洛中を追われ、5年余りの蟄居生活を送った家である。

岩倉具視幽棲旧宅(ウイキペディアから)

 文久2年(1862年)、数え38歳で辞官・落飾した岩倉は、大工藤吉の古民家を譲り受けて暮らした。元治元年(1864年)7月、禁門の変で過激な攘夷論者が追放されても、赦免はなかった。

 それでも、彼のもとを薩摩藩や朝廷の同志が訪れて、危険を承知で政治活動を続けていた。その成果が、慶応3年12月9日(1868年1月3日)に京都御所の小御所(こごしょ)にて開かれた国政会議である。

京都御所の小御所(ウイキペディアから)

 その日は底冷えのする曇天で時折、雪が舞っていたという。王政復古の大号令により、幕府や摂関政治を廃止して、総裁・議定・参与の三職を設置した最初の会議である。

 ここで、大政奉還を行った徳川慶喜の官位辞退と領地削減(辞官納地)が決定された。この動きに主導的な役割を果たしたのは岩倉であった。今回はその岩倉に焦点をあてて、真の姿に迫ってみたいと思う。
 
2. 明治維新の立役者 岩倉具視のこと
 それでは彼の経歴をざっと辿って行くことにしよう。文政8年(1825年)、公卿堀河康親(ほりかわやすちか)の次男として京都に生まれた。

 幼名は周丸(かねまる)、公家の間では岩吉と呼ばれていたという。14歳でほぼ同格の公家、岩倉具慶(ともやす)の養子となった。後に彼は朝廷に出仕して、次第に孝明天皇の信頼を得ることになる。

 この頃から京大坂では過激派が跋扈して、世情は騒然としていた。岩倉も前所司代と内通していた、として糾弾されたのである。そもそもこれは公武合体を望む孝明天皇の意向に沿ったものだった。

 京でテロが横行すると、幕府寄りと見做された人々がターゲットにされた。彼も命を狙われることとなり、遂には追放蟄居させられたのであった。

岩倉具視幽棲旧宅(京都のいろはから引用)

 彼は西賀茂・霊源寺、西芳寺などを転々としたあと、洛北・岩倉の地へ辿りついたのだった。これが文久2年(1862年)の秋、以来蟄居生活は5年に及んだのである。

 この間、長州の過激派は追放された禁門の変の後も赦免はなかった。2度の長州征伐の間も、朝廷首脳は彼を警戒して決して許さなかったのである。

 武力討幕へ方針転換した薩摩藩は謹慎中の岩倉と連携して、討幕の密勅を得るべく活動を進めることになる。このような状況下で討幕派は洛北・岩倉の里でクーデターを計画する。

 慶応3年12月8日(1868年)の朝議が終わり、公卿たちが退出した9日未明、薩摩・土佐・越前・尾張・安芸の五藩の兵が御所を固めた。岩倉は衣冠束帯の正装で参内して、王政復古の大号令案を奏上した。

 御所内学問所において、これが発せられて摂関政治の廃止、征夷大将軍などの幕府の廃止などが決まった。これを受けて夕刻から小御所で最初の会議(小御所会議)が開かれたのである。

 小御所会議の評定で一番揉めたのが慶喜の処分だった。岩倉・西郷・大久保らは辞官納地をさせたかったが、山内容堂(やまのうちようどう)や松平春嶽(しゅんがく)は猛反対する。

小御所会議

 半藤一利さんの『幕末史』から引用する。大久保利通の日記に「越公、容堂公大論、公卿を挫き傍若無人なり、岩倉公堂々と論破し感服に堪えず。」とある。

 「数人の公家が幼い帝を擁して権力を盗もうとしている」と容堂が論陣を張る。これに対して岩倉は「今日のことはすべて陛下の決断に拠っている。幼い天子などと失礼千万である」と述べたので、さすがの容堂も謝罪した。

山内容堂(ウイキペディアから)

 この会議で慶喜の辞官納地は決まったものの、親幕派諸侯の巻き返しもあって、討幕派の意図する通りにはことはすんなりとは運ばなかった。ひと月後の鳥羽・伏見の戦いを待たねばならなかったのである。

 それでも、岩倉がこの会議に不退転の決意で臨み、堂々と親幕派諸侯を論破したことは維新の歯車を大きく進めたことには違いない。

 明治期のジャーナリスト池辺三山によれば、「知恵あり、才気あり、弁才あり、またすこぶる立派な文才がある」と評している。

 政治家に必要なほとんどの才能を持ち合わせ、洛北の山里でしっかりと作戦を練り上げていたのである。これを胆力と決断力をもって実行に移していったのであった。

岩倉使節団(文明開化の先駆けとなった:ウイキペディアから)

 歴史作家の半藤一利さんが「歴史には意志がある歴史の流れの中であるひとつの意志が働いて、こういう時にはこういう人がいいという適任者を用意することがある」と述べている。

 この時に「歴史」が選んだ人が、ほかでもない岩倉だったのではなかろうか。(了)

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