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『ペソアと歩くリスボン』をGoogle マップで行ってみた。


いつだって旅行は楽しいものですね。
特にポルトガル、リスボンへの旅は格別です。
ただ、冒頭からこんなことを言って申し訳ないのですが、私は旅が苦手なんです。
初めてのところはドキドキするし、緊張します。
我々のようにいつも電車の端っこに行ってしまうような人間にはハードルが高すぎるんです。
そこでなんとか自宅から旅に出られないかと思って、考え付いたのがGoogle マップというわけですね。
これはそんな出不精である私が、『ペソアと歩くリスボン』(彩流社)に沿って、青く晴れた空、路地を走る路面電車、丘から見下ろすテージョ川とその街並み、美味しい食事にワインがあるリスボンを、世界の文学者が愛するフェルナンド・ペソアとGoogle マップで一緒に回る旅です。基本は「愛するペソア、いいぞ!」と「リスボンいいぞ!」という二大要素で出来ています。

フェルナンド・ペソアが、

「平均的イギリス人にとって、いや、現実に、ポルトガル以外の平均的な全世界の人々にとって(スペイン人を除いては)、ポルトガルとは、ヨーロッパのどこかにある、なんだかよくわからない小さな国である…」
(『ペソアと歩くリスボン』P.164より)

という認識のもと、ポルトガルを知ってもらうために書いた『ペソアと歩くリスボン』(原題 Lisboa: O Que O Turista Deve Ver)。
いろいろ理由はあるのですがこれこそ、ペソアが書くべき本だった最高の本だったと今は思います。
何度かこの記事は書くのを諦めたのですが、Twitterでも何人かの人が「『ペソアと歩くリスボン』をGoogleマップで見ながら読んだら面白いのでは」というようなことが書いてあって、勝手に励まされて書き切りました。

さて、前口上はこのくらいにして、早速リスボンに(Google マップで)行ってみることにしましょう。
『ペソアと歩くリスボン』はお持ちになりましたか?
途中途中スマホやPCで写真なんかも調べながら見ていただくと臨場感が増すと思います。
リスボンは坂が多いので靴はスニーカーをオススメします。リスボンはスリもいるので身の回りには気を付けて。カラッとした地中海の夏ですので、水分(ビールも)の補給も忘れずに。

■ご注意
①『ペソアと歩くリスボン』を以下、本書と表します。本書がなくても読めると思いますが、持っていた方が意図が伝わるし楽しいと思いますので絶対買ってください(正確に言えば私はペソアの本はすべて買ってほしいと思っています)。
②本書内に指定がない限り移動は徒歩にしました。
③間違えがあればお手数ですがご指摘くださると幸いです。
④経路を画像で当て込んだ関係上、パソコンの方が見やすいです。
前回に続きペソアファンの皆様を怒らせるようなことを書いていますが、すべては愛ゆえなので、何卒ご寛恕くださいませ……。
⑥全部で30,000字超あります(バカ)。お時間に余裕があるときにお読みください。


●目次
1.ペソアって誰?(Who Is Pessoa?)
2.【本編】『ペソアと歩くリスボン』をグーグルマップで行ってみた。
3. あなたにとって旅とは?
4. あとがき
5. 参考書籍的な、メモ的な、関連書籍のご案内的な


1.ペソアって誰?(Who Is Pessoa?)

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フェルナンド・ペソア(1888年~1935年)

まずはペソアを簡単にご紹介します。
ペソアという人を知ってますか?と聞くと、日本だとだいたい知らないと言われます。私の高校からの友人は誰も知らないと言ってました。三人しかいないけど。
フェルナンド・ペソアはポルトガルの国民的詩人、作家です。ポルトガルではとても愛されている作家で、先日国連事務総長のグテレスさんが好きな詩人としてペソアを挙げているくらいでした。元々ポルトガルでは詩人が愛好されるお国柄だそうで、ペソアが親しまれているのもそういう理由があるのかもしれません
どんな作家かというと、ただただ最高な作家です。ボキャブラリーのなさは恥ずかしいですが、本当に最高なんです。本当に素晴らしいのです。
ポイントは、まず異名者と呼ばれる、自分以外の人格を複数操り創作活動をしたこと。ものすごくわかりやすく言えばTwitterの別アカをたくさん使ってるようなイメージです(実際にはもちろんもっと複雑です)。
あと生前は文壇では評価されたりもしつつほぼ無名だったけれど、亡くなったあとトランクからたくさんの原稿が見つかり、知られるようになったという、この中二病なら誰しもワクワクしちゃうエピソード!
また孤独と向かい合っているところが、現代のように大変な時代に生きる我々にぴったりです。
なぜか見た目が印象に残ること、また世界の作家に愛されているのも特徴的かもしれませんね。
ちなみにポルトガルではかつてお札だったことがあって、日本で言えば樋口一葉とか福沢諭吉みたいなイメージといえばわかりやすいですか。
とにかく最高な作家なんで、私としては早く『文豪ストレイドッグス』に登場させてほしい。
どのくらい最高か、より詳しく知りたい方はぜひ『新編 不穏の書[断章]』をお読みください。
また個人的なオススメはTwitterのペソアbotで、気軽に毎日ペソアの言葉が楽しめますよ。


2.【本編】『ペソアと歩くリスボン』をグーグルマップで行ってみた。


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まずはポルトガルのリスボンの場所をから見ていきましょう。大西洋に突き出ていて、見事にヨーロッパの端っこですね。ここから大航海時代が始まるんだ……。

↑ これがリスボン近郊になります。

おお、リスボン、我が故郷!
(『不安の書【増補版】』p.526)

とペソアの異名者ソアレス(つまりペソアの別アカ)が愛を持って語るリスボン。
上の図だと南側が海に見えますが、実は大西洋に繋がる川であるテージョ川です。

さて、本編の書き方を説明すると、

(例)
■アルカンタラ桟橋(『ペソアと歩くリスボン』=以下略 p.8)~コメルシオ広場(p.17)→【車で22分】(=ペソアが指定した移動方法で異動したときのグーグルマップの移動にかかる時間)

【Google マップのルート画像】

となっています。
場所と場所の指定(この例で言えば、アルカンタラ桟橋とコメルシオ広場)に関しては『ペソアと歩くリスボン』の文節に基本的に沿っていますが、一部変えたところもあります。

さて、それでは早速行ってみましょう。

■アルカンタラ桟橋(p.8)~コメルシオ広場(p.17)→【車で22分】

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さて、まずはリスボンの港に入るところから。
想像してみてください。
ペソアが生きていた1888年〜1935年という時代を!船から降りたお客と、それを待つ人々で溢れています!
旅客飛行機はまだ整備されておらず、リスボンに行くのは船でした。一番最初に着くのはもちろん港、というわけで桟橋なんです。

七つの丘の町、リスボン。すばらしいパノラマを約束する、七つの丘の展望台。その上一面に、高く、低くつらなる、色とりどりの家々。それが、リスボンだ。
(本書p.7)

から本書は始まりますが、港に着くシーンが本当に旅に来て、リスボンの港に着いたかのようにワクワクするので、絶対読んでほしいですね。(ただ、当時はもうパリ→マドリード→リスボンの鉄道が通っていたので、実は船じゃなくてもよかったのではという話も。「誰がどこから来るのか」もペソアは想定して書いていたのかもしれませんね)

↑ こちらはコメルシオ広場。

そう、落日だ。わたしはゆっくりと気もそぞろに税関通りから河口へとやってくると、宮殿広場(コメルシオ広場)が目の前に拡がっているので、陽の隠れた西空がはっきりと見える。
(『不安の書【増補版】』p.45)

と書くのはペソアの異名者ソアレス。今後も途中途中登場していただきます。本書内のペソアの言及とソアレスが同じところを言及してても、別アカだからテンションが全然違うのが面白い。

ちなみにコメルシオ広場の前には Martinho da Arcada というペソアも通った店があり、大変美味しいので晩御飯にぜひどうぞ。

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↑ これは少し前の写真ですが、今もペソアの席が残っています。Google マップで調べてもペソアの席の写真があるので、見てみてください。

■コメルシオ広場(p.17)~ロシオ(リスボン中央駅)(p.24)→【徒歩で11分】

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ここでペソアはサンタ・ジュスタのエレベーターを紹介しています。

全部鉄でできた建築物でありながら、その軽やかな外観と安全性は、ほかの鉄製建築と大きく一線を画すものだろう。
(本書p.20)

とペソアは本書内で誇ってます。サンタ・ジュスタのエレベーターは高さで言えば45メートルなのでそれほど高くありませんが、リスボンの街が見渡せる絶景スポットです。東京で言うところの東京タワー、パリで言うところのエッフェル塔や凱旋門みたいな雰囲気でしょうか。

サンタ・ジュスタのエレベーターで普遍的なものは、世界を便利にする機械装置だ。ランス大聖堂で真実なのは、大聖堂でもランスでもなく、人間精神の深さを知らせるために捧げられた建築物の宗教的荘厳さだ。ズワーヴ兵の半ズボンにある永遠のものは、衣装という見せかけの虚構、その様式上、新しい裸体である社会的単一さを創った人間的な言葉だ。地方的発音にある普遍的なものは、気ままに暮らしている人々の声の家庭的な音色、集団内の多様性、習慣の多彩色な継起、人々のなかの相違、国家の広範な多様性だ。
 われわれは自分自身のなかを永遠に歩く人なので、われわれ以外に風景はない。われわれは自分自身すら所有していないので何も所有していない。何者でもないから何も持っていない。わたしはいかなる宇宙に向かっていかなる手を伸ばそうとするのか?宇宙はわたしのものではない。わたしなのだ。

(『不安の書【増補版】』p.443)

と書くのはソアレス。
「われわれは自分自身のなかを永遠に歩く人なので、われわれ以外に風景はない。われわれは自分自身すら所有していないので、何も所有していない」っていうところめちゃくちゃかっこいい。
東京タワーを見てもこんなすごいこと書けないな私は……。

サンタ・ジュスタのエレベーターの上から見るリスボン。向こう側の海みたいに見えるのがテージョ川です。

さてサンタ・ジュスタの次はリスボンの中心地でもあるロシオ。ペソアはロシオについて、

ちょうどリスボンのまんなかである。船で来た方であれ、列車で来た方であれ、もしもその日のうちに町を発つ予定でないならば、ここでホテルを選ぶのが一番妥当だろう。というのも、実際、おもなホテルはロシオ、もしくはその近辺に集中しているからだ。
(本書p.24)

と言っています。『地球の歩き方 ポルトガル』によれば、現在でもアメリカンタイプの大型ホテルは新市街側にあって、こじんまりとしたホテルは今もロシオ周辺にあるそうです。

ロシオ駅。美しいですよね。

■ロシオ(p.24)~ポンバル侯爵広場(p.31)→【徒歩で21分】

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さて、ロシオからフラフラと歩いてボンパル侯爵広場に来ました。
ポンバル侯爵というのは18世紀の人で、1755年にリスボンを襲った大地震後、瓦礫と化したリスボンの再建を主導した人で、啓蒙的な独裁者でもあります。

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ボンパル侯爵(1699年~1782年)

リスボン大地震は18世紀くらいのヨーロッパの本とか小説を読んでると言及があるくらい、大きな地震でした。津波と火災でリスボンは廃墟と化しました。リスボン地震に関しての詳細は、Wikipediaや、『リスボン地震とその文明史的意義の考察』((公財)ひょうご震災記念21世紀研究機構)や、歴史秘話ヒストリアのこちら、Yahoo!の記事『ヨーロッパを震撼させたリスボン地震から始まる激動の18世紀後半』をご覧になってください。

こちらがボンパル侯爵広場。
ペソアが『ペソアと歩くリスボン』を書いた1925年時点ではまだ出来上がっていなかった(本書172ページより)のだけど、完成した当日にペソアは観に行ったのかとか想像すると胸がキュッとなってドキドキしてしまう……
これが、恋……?

■ポンバル侯爵広場(p.31)~カンポ・ペケーノ闘牛場(p.33)→【徒歩で27分】

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ボンパル公爵広場から道を歩いてきたらあるのがカンポ・ペケーノ闘牛場。闘牛というとスペインを想起しますが、ポルトガルも闘牛が盛んだそうです。カンポ・ペケーノ闘牛場は、現在は映画館などの施設も一緒になった場所になっているそうです。ポルトガルの闘牛は殺さず、抑え込んで終わりだそう。
ちなみにここからカンポ・グランデに行くまでにエントレカンポス広場(Rotunda Entrecampos)の記念碑の話が出ていて、

半島戦争の記念碑だ。この記念碑は一八〇八年に他国の支配から祖国を開放した、国民の勇気ある行為に捧げられている。
(本書p.34)

とペソアは説明をしています。
エントレカンポスはポルトガル語で領域(フィールド)の間、という意味だそうです。
半島戦争の記念碑という正直言うととても地味なところの説明をしているように感じますけど、これは本書のペソアはナショナリスティクなペソアなので、こういう場所は外せないんですよね。

↑ エントレカンポス広場の記念碑

そもそも半島戦争ってなんだろう?と思って調べてみたところ、半島戦争は1808年から1814年まで続いた、ナポレオン率いるフランスと、ポルトガルとの戦争だそうです。日本では"スペイン反乱"と教科書に記載されてるようですが、高校の頃世界史を得意だったと自負していた私がまったく記憶にありません。世界史の先生ごめんなさい…。
頑張って調べたところ、フランスは当時ヨーロッパに覇を唱えていて、あとはイギリスとポルトガルとロシア帝国になんとかしたいナポレオンでした。そしてフランスとスペインはついにポルトガルを侵略し、三つに分割しようとします。ポルトガルでも王党派と革命派(フランス寄り)に意見は分かれていたこともあったりして、結局リスボンは占領されました。ところが、スペインでフランスに対する民衆蜂起が起きたのをきっかけにポルトガルでもゲリラ戦が展開。そこにイギリスも応援でやってきて……という流れで最終的にフランスは撤退します。「ゲリラ」という言葉の起源はスペインとポルトガルの民兵がフランス軍に対してゲリラ戦を行ったことにあるそうですよ。詳しくは半島戦争をご参照ください。

この半島戦争、ポルトガル王室が当時植民地だったブラジルに逃亡したことで、結果的にブラジルの独立につながったり、国土が荒廃して、経済的に成長が難しくなるなど、この後のポルトガルにも大きな影響を与えました。この後も内乱が続いたり、植民地ブラジルを手放すことになったりしたポルトガルは経済的繁栄が失われ、ヨーロッパの中で置いていかれることにつながります。

こういった状況の中で、19世紀後半ごろから「「ポルトガル」の再発見運動」が起こります。これはヨーロッパの中で遅れたポルトガルを再生させるためのナショナリズムでもあり、「ポルトガルらしさ」というものが創造されました。「サウダーデ」という言葉はもともとポルトガル独特の言葉でしたが、これをよりナショナリズム的に結び付けたのはこの運動の中からで(「サウドディズモ」というそうです)、ペソアもその影響を強く受け、また一時期参加していました。
特に20世紀初頭は国王カルロス一世が暗殺されたり、その中から共和政が樹立するも不安定な政治でした。ナショナリズムはそういう激動の中で呼びかけられ、高揚していました。本書の立ち位置もそういう系譜に連なるのかなと思われます。

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全然関係ないけどかっこいいから載せてしまうナポレオン。『サン=ベルナール峠を越えるボナパルト』。ダヴィッド作。かっこいい。

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これもかっこいい。ジャン・グロ作の『アルコレ橋のボナパルト』
「行動の人」代表みたいなナポレオンとペソアを並べるのもなんだかちょっと思うこともあるけれど、『ペソアと歩くリスボン』は「行動の人」ペソアが前面に出た著書ということで、載っけちゃいます。
そしてフランス軍がスペインで行った虐殺、ゴヤの『マドリード、1808年5月3日』も。この暗さと灯りの対照さが、とても怖いですよね……

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■カンポ・ペケーノ闘牛場(p.33)~スポルティング・リスボン?(p.38)→【41分?】

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さて、リスボンに戻りましょう。
カンポ・グランデの中にジョッキー・クラブ競馬場、またペソアが「一見の価値ありだ」と言ったシャレー・ダス・カナスという建物があるそうなのですが、どうしてもGoogle マップで見つけられない。
大変だ、Google マップで迷子だ。
まぁ、私は方向音痴だし、人生も迷子だし仕方ないですね…。
もしご存知の方や、行ったことあるぞという方、場所を教えていただければ幸いです。

そのシャレー・ダス・カナスのあとにペソアが語る、カンポ・グランデの奥にあるサッカー競技場とは、サッカーチーム スポルティングCPの本拠地のことですが、調べると現在の競技場エスタディオ・ジョゼ・アルヴァラーデは2003年に建てられた新スタジアムでした。

↑エスタディオ・ジョゼ・アルヴァラーデ。

「すると、ペソアが言ってるのは旧スタジアムのことかな?」と思って調べたものの、旧スタジアム開場も1956年建設でしたので、それ以前のサッカー場のようです。なので現在の位置とペソアが『ペソアと歩くリスボン』を書いた1925年の位置と違うかもしれません。ペソアが見ていた風景が無くなっているところは他にもたくさんあると思うのですが、なんだかちょっと寂しいですね。
ちなみにスポルティングCPは1940~1950年代に黄金期を迎えて優勝を重ね、1963~64年シーズンでヨーロッパの大会(UEFAカップウィナーズカップ)でも優勝を果たし、フィーゴやクリスティアーノ・ロナウドら世界的な名選手を輩出するすごいクラブになって、結果的にポルトガルを「ヨーロッパのどこかにある国」から引き上げた理由の一つにもなるとは、さすがにペソアも予想してなかったのでは。
ところで、ポルトガルで一番古いサッカークラブはアカデミカ・コインブラで、設立は1887年だそうです。当時(1925年)のサッカーはまだワールドカップ前で、国内リーグ戦もなかったとはいえ、ペソアがどういうイメージでいたかとても気になるところ……。遺稿の中にサッカーへの言及とかないんですかね。

カンポ・グランデ(p.38)~サン・ヴィセンテ・デ・フォーラ教会(p.43)→【車で20分】

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さて、カンポ・グランデからサン・ヴィセンテ・デ・フォーラ教会へ車を飛ばしますよ。
途中ペソアが言及するセニョーラ・ド・モンテからの眺めはこんな感じ。

ソアレスが、

夜景もすばらしいが、日の出、日没の頃もまた美しい。
(『不安の書【増補版】』p.38)

と語るだけはある美しさですね。

■サン・ヴィセンテ・デ・フォーラ教会(p.43)~大砲博物館(p.48)→【車で14分】

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↓ サン・ヴィセンテ・デ・フォーラ教会。17世紀のポルトガルを代表する建物です。

ここですが、地図の真ん中あたりにT字路があります。左にいけばマドレ・デ・デウス教会(現アズレージョ博物館)があり、右に行くと大砲博物館があります。右に行こうと書いてあるので、左手部分を含めるか迷ったのですが、結局両方紹介されているので、両方入れました。

↑ マドレ・デ・デウス教会(アズレージョ博物館)。

■大砲博物館(p.48)~くちばしの家(p.49)→【徒歩で13分】

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くちばしの家というのはアフォンソ・デ・アルブケルケの子息が所有していた家だそうで。
アルブケルケとはホルムズ、ゴア、マラッカを占領し、ポルトガル海洋帝国を作った男の一人で、ポルトガル史に残る英雄の一人です。日本ではヴァスコ・ダ・ガマやマゼランの方が全然有名ですけど、アルブケルケはボイス・ペンローズ『大航海時代』(ちくま学芸文庫)によれば、

「《ポルトガルの軍神》として知られる古強者に全く相応しい功業のもたらした一つの壮大な遺産を残した」
(『大航海時代』p.143)

人です。
インド洋を通じて交易する場合、ベイルートまでを抑えるホルムズ、その中間にあるゴア、中国までの門となるマラッカを抑えなければいけないとアルブケルケは考えましたが、ここはずっとイスラム商人たちが支配してたところだったので(『交易の世界史』(ちくま学芸文庫)に詳しいので是非)、覇権をめぐっていろいろ戦いがあるんですけど、結果アルブケルケはこのエリアの支配に成功しました。これがなかったらポルトガルは大航海時代に繁栄できなかったですし、しかもゴアは1961年までポルトガルのものになるなどポルトガルに大きな影響を与えました。アルブケルケはポルトガルを偉大な海洋帝国に導いた人なので、ポルトガルの人として、またナショナリスティックな本書のペソアからして、彼は外せない人物なんですね。
ちなみにアルブケルケはゴア占領時にイスラム教徒を虐殺したことからポルトガルの詩人カモンイスより非難を受けているそうです。(出典はこちら

くちばしの家(Casa dos Bicos)。ポルトガルのノーベル文学賞受賞者サラマーゴのポスターが貼ってありますが、これはくちばしの家が現在ジョゼ・サラマーゴ博物館になっているためです。大変かっこいい。

■くちばしの家(p.49)~リスボン大聖堂(p.51)→【車で2分】

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さて、次はリスボン大聖堂へ。
車で2分なのでペソアがなぜここで車に乗ったのかはよくわからないのですが、これはもしかして、最初から車で回ることを想定していたのでは……?
実際は歩いても10分くらいのところですので、歩いて回るのも良いかもしれません。

↑ リスボン大聖堂。

■リスボン大聖堂(p.51)~サン・ジョルジェ城(p.56)→【徒歩で10分】

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ペソアはこのリスボン大聖堂の見どころとして

「一一九五年に聖アントニオが洗礼を受けたと歌えられる洗礼盤」
(本書p.54)

を上げています。
「え、聖アントニオって誰?」ってなりますよね。私もです。
聖アントニオはイタリアの都市パドヴァ、ポルトガル、ブラジルの守護聖人ということで、ポルトガルでは人気の高い聖人だそうです。リスボンに生まれ、『平和の祈り』でも有名な(実際にはフランチェスコ作ではないようですが)アッシジのフランチェスコに共鳴してフランチェスコ会に入信し、イタリアで宣教活動を行い、1231年6月13日にイタリアのパドヴァで亡くなりました。
え…………!!
6月13日と言えば、なんとペソアの誕生日と同じ日じゃん!しかもリスボン生まれ!これはなんのメッセージ…!?

ちなみにパドヴァはペソア好きとしても知られる漫画家のヤマザキマリさんが住んでいらっしゃるそうです。

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↑ パドヴァ。ヴェネツィアの近く、だいぶ北側ですね。

■サン・ジョルジェ城(p.56)~リスボン商工会議所(現在はAteneu Comercial De Lisboa?)(p.62)→【徒歩で35分】

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サン・ジョルジェ城、現在は観光名地として修復も行われ、多くの観光客が訪れるスポットですが、ペソアの時代は修復が行われていなかったそうで、ペソアが「今日、城の周囲には民家や兵舎がせまり、城自体も地震や人の手による破損、崩壊が目立つが」と書いているのも頷けます。
ペソアに現在のサン・ジョルジェ城を見せたかった……。改修が終わって綺麗だし、高台からの景色がまた美しいんです……。
そして『からくりサーカス』世代の私は"サン・ジョルジェ"と聞くと「お、あるるかんの武器か?」って思うくらいに『からくりサーカス』が好きです。
名作ですよね。

こちらがサン・ジョルジェ城から眺めたテージョ川。また反対側はリスボンの中心地になります。美しい…。

別件ですが、ここのAteneu Comercial De Lisboaが、本当に本書で書いてあるリスボン商工会議所(Associação Comercial de Lisboa)なのか不確かです。位置的には合ってると思うのですが、間違っていたらご指摘くださいませ。

そしてここからすごく重要な話ですが、実はサン・ジョルジェ城からリスボン商工会議所までの道についてペソアからの指定がありません。
つまりここであえて回り道をすることで、"あの"金箔師通りを通ることができます。
そう、異名者ソアレスが働き、愛した通りです。

明日、わたしも銀通りから、金箔師通りから、織物商通りから姿を消すのだろう。明日、わたしもーー感じる心であり、自分にとって宇宙である、わたしもーーそう、明日わたしもこういった街路を通るのをやめた者、「あの男はどうしたのだろう?」と、ぼんやりと他人が思い出す者になるのだろう。そして、わたしの行うすべて、感じるすべて、体験するすべては、どこか都市の街路の日常性のなかで一人少なくなった通行人に過ぎないのだろう。(『不安の書【増補版】』p.248)

とか、

もしも世界を手にしているなら、まちがいなく金箔師通りまでの切符と交換するだろう。
(『不安の書【増補版】』p.309)

とか、

そうだ、分かった!社長のヴァスケスは生活なのだ。単調で必要な生活、横柄で未知の生活だ。この陳腐な男は生活の陳腐さを表している。彼はわたしにとって外側のすべてだ、なぜなら、生活はわたしにとって外側のすべてだからだ。
そして、金箔師通りの事務所がわたしに生活を表しているなら、同じ金箔師通りの、わたしの住むこの三階はわたしに芸術を表している。そう、芸術は生活と同じ通りであるが、異なる場所に住み、芸術は生きていくつらさを和らげはしないが生活のつらさをやわらげ、生活自体と同じように単調ではあるが、ただし、ある場所がちがうのだ。そう、わたしにとってこの金箔師通りは物事の意味全体、あらゆる謎の答えをそのなかに持っているのだ、ただし謎が存在しているということを除くが、これは答えのありえないことだ。

(『不安の書【増補版】』p.330)

とソアレスが言及する、あの金箔師通り。
最高すぎて寄り道する以外ないでしょ?

↑ 金箔師通り。
想像していたより地味……
いや、派手と思っていたわけではないんですが、いかにも文豪が住みそうなところとかでもなくて。本当に都市の孤独者といそうな感じでそこがまたソアレスが働いていたっぽくていいんですけど。

しかし結局、金箔師通りにも世界があるのだ。ここでも神は生きるという謎にこと欠かないようにしてくれている。そのために、荷車や荷箱の光景のように貧しいにせよ、わたしが車輪や板の間から取り出すことのできる夢は、そうであっても、わたしには自分が持ち、自分が持つことのできるものなのだ。
確かに、落日はどこかほかにある。しかし、この下町を見下ろす五階からでも、無限を考えることができる。確かに、下に問屋のある無限ではあるが、遠くに星があり……。この午後の終わりに、高い窓辺で、自分がそうでないブルジョアの不満と、けっして自分にはなれそうにもない詩人の悲しみに浸りながら、わたしはそうしているのだ。

(『不安の書【増補版】』p.619)

またこのあとで通るフィゲイラ広場ですが、こちらも『不安の書【増補版】』内に言及があり、

思っていたよりも速い足取りでゆっくりと門のほうに向かい、再び家のほうに上がっていく。しかし入らない。ためらう。先に進む。フィゲイラ広場(ロッシオ近くの広場、リスボン中央市場があった)はさまざまな色の売り物で溢れ、大勢の客がわたしの通行人としての視界を遮る。わたしはゆっくり生気なく進み、わたしの見方はもう自分のものではなく、もう何でもない。ギリシア文化、ローマ的秩序、キリスト教的道徳、わたしが浸っていると感じる文明を構成するそのほかすべての幻想を知らず識らずに受け継いだ人類の見方に過ぎない。生きている者たちはどこにいるのだろう?
(『不安の書【増補版】』p.295)

など、この近辺はペソアファンは実は見るべきところが多い通りですので、ぜひGoogle マップぐるぐるしてみてください。

■リスボン商工会議所(p.62)~国立近代美術館(現在はシアード美術館)(p.62)→【徒歩で14分】

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さて、サン・ジョルジェ城から歩いてリスボン中心部に降りてきて、そこから国立近大美術館(現在はシアード美術館)に向かうところです。
ここも問題があって、ペソアは「車に乗ろう」と言っているのですが、Google マップで調べると、その道はなんと車では通れない…!!!
指示としては、

ふたたびロシオを横切り、カルモ通り、さらにガレット通りを上る。
(本書p.62)

という一言ですが、少なくともGoogle マップ上は車だと通れないんですよね。
1988年に大火事があったらしく再開発されたからなのですかね。
なのでここは道を示すことが正しいと思い、徒歩にしました。(実際歩いても遠くない距離なので歩いて全然問題ない距離です。)
こちらも違っていたらご指摘くださいませ。

↑ シアード美術館。

■[番外編]国立近代美術館(現在はシアード美術館)~国立図書館→【車で21分】

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そして突然ですが始まる番外編。
リスボンの国立図書館は、ペソアが『ペソアと歩くリスボン』を書いた当時(1925年)、国立近代美術館(現シアード美術館)の上(三階)にあったようですが、現在はカンポ・グランデ傍(リスボン大学の近く)にあります。
現在の場所は当然ペソアのルートには入っていませんが、せっかくのGoogle マップなのでこちらも行ってみましょう。
ペソアの遺稿が保存されているそうなので、お立ち寄りの際は忘れずに。(私は行けてません(涙))

↑ 国立図書館。なんか暗いし廃墟感ありますけど、画像合ってますよね……?

■国立近代美術館(シアード美術館)(p.62)~バラオン・デ・キンテーラ広場(p.72)→【徒歩で8分】

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さて、道を戻しましょう。ここですごく面白いのが、ペソアが尊敬し、またポルトガルを代表する詩人、ルイス・デ・カモンイスの名が付いたルイス・デ・カモンイス広場に行った後、1900年に亡くなったポルトガルの小説家エッサ・デ・ケイロースの像があるバラオン・デ・キンテーラ広場に案内するところですね。
カモンイスの詩は、小林英夫と、ペソアの詩集『ポルトガルの海[増補版]』を訳した池上岑夫、サラマーゴの『リカルド・レイスの死の年』の訳者である岡村多希子の共訳で『ウズ・ルジアダス ルシタニアの人びと』(岩波書店)が出ています。新しい版は池上岑夫訳で『ウズ・ルジアダス ルーススの民のうた』(白水社)で刊行していますが、どちらも現在は品切れのようです。悲しい。
ちなみにエッサ・デ・ケイロースの小説は、白水社から『縛り首の丘』が、『アマーロ神父の罪』、『逝く夏』、『都市と田舎』は彩流社より刊行中。ペソアも名前を上げるポルトガルの作家なのでこちらも忘れずにどうぞ。

こちらはルイス・デ・カモンイス広場。

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↑ ルイス・デ・カモンイス。
ペソアと同じくポルトガルのお札にもなっていました。右目はイスラムとの戦いで失いました。『ポルトガル短編小説傑作選』内、ジョルジュ・デ・セナ著の『バビロン川のほとりで』には晩年の貧窮に苦しむカモンイスが描かれています。これがまた最高なのでぜひ。

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『ポルトガル短篇小説傑作選 (現代ポルトガル文学選集)』(現代企画室)

ちなみにこちらはエッサ・デ・ケイロース ↓

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■バラオン・デ・キンテーラ広場(p.72)〜サン・ロケ教会(p.78)→【徒歩で12分】

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さて、リスボンを歩いているんでしたね。バラオン・デ・キンテーラからカルモ修道院へ向かいます。
この道の途中、Bertnandという書店があります。私がリスボン行ったとき、たまたまペソアの本がたくさんショーウインドーに並んでいたので中に入った本屋さんでしたが、「もしかして有名なのか?」と思って調べたら、2016年に「世界で一番古い本屋」としてギネスブック掲載されてました!!
知らなかった!!
1732年創業で、ペソアも通った書店だそうです……知らなかった!!!(二度目)
ペソアは絶対この道の前を通らせているのに!
『ペソアと歩くリスボン』内に言及が、ない!!!なんで!?
本屋は観光や国家をPRするのに価しないという時代だったのかなと思わなくもないですが、一言書いてくれればいいのに……。
そういえば、『ペソアと歩くリスボン』にはペソアが個人的に通うお店は食べ物屋も含めて出てこないですよね。実際ガイドブックだけでなく、国家をPRするにも食べ物飲み物レストランは付き物だし必要な情報だと思うのですが、本書内にはないんですよね。
ペソア自身が通ってなくても名店はたくさんあったはずですよね。そういえば『不安の書【増補版】』には

その後、実生活を思い出した。その夜、わたしはレアン【知識人がよく集まるリスボンの有名なレストラン】に食事に連れていかれた。いまだにステーキの味を懐かしく覚えている――今日では誰も作らないような、あるいはわたしの食べないようなステーキだと知っている。いや、そうだと思う。
『不安の書【増補版】』p.167

のレアンという店を見つけられたらここに載せようと思っていたのですが、見つけられなかったので諦めています。

話を元に戻すと、本屋と同じ出版関係だと本書の最後に印刷会社が出てくるのですが、これも意図があるのでしょうか。
ポルトガルの書店というと世界で3番目に美しいと言われるレロ書店が有名ですが、個人的にはBertnandの方が好みの書店でした。出版社営業経験者お墨付きです。是非どうぞ。
ちなみにGoogleで調べて出てくる店内の写真には、ペソアの本が並んでいる写真もありますのでお楽しみくださいませ。

↑ 本屋Bertrand。外見によらず店内が広いです。

■サン・ロケ教会(p.78)~エドゥアルド七世公園(p.88)→【徒歩で47分】

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(すごく歩いているので、ここは実際は車じゃないかと思ったりもしますが、本文内に書いてなかったので徒歩です。)
この道の途中にサン・ペドロ・デ・アルカンタラ展望台があります。ここもとても素敵な眺望で、向こう側にはサン・ジョルジェ城、右側には雄大なテージョ河が見えて、この景色を見たら、「海の向こうを見てみたい!」って思うなと思いました。大航海時代はここから始まるんだ……。
とにかく素敵な眺めです(ちなみに私は最初テージョ河を見たとき海だと思いました)。
サンタ・ジュスタのエレベーター側からはトラムで上るんですが、私が見た時のトラムは落書きだらけでした。観光地なのにそんな落書き書かれたまま走らせるか?っていうくらいなんですけど、海外ってそんなもんですか?

サン・ペドロ・デ・アルカンタラ展望台。リスボンは東京より空、特に雲との距離が近い気がするんですよね。やっぱり世界って美しいですよね。生きるのは難しいですけど……。

雲……。今日わたしは空を意識している。というのも都市(まち)に住んでいて、都市を含む自然のなかに住んでいるわけではないが、見ずして空を感じる日があるからだ。雲……。それが今日、主たる現実で、まるで空にベールがかかると、わたしの運命に大きな危険がせまるというかのように気にかかる。雲……港口から城【テージョ川とリスボンの街を一望する高台にあるサン・ジョルジェ城をさす】へ、西から東へ、むきだしのまま騒ぎをまき散らしながら通り過ぎ、時には白く、何から出来ているのか分からない先頭をぼろぼろにして進み、また時には半ば黒く、速度を落とし、聞こえるほどの風に吹き飛ばされるまでぐずぐずし、さらに汚れた白というように黒く、まるで居残っていたいというかのようで家並のつらなるなかに街路が開けた見せかけの空間を暗くしているのは、その影のためというよりも、それが接近したためだ。
雲……。わたしはそうと知らずに存在し、望まずに死んでゆくのだろう。わたしは、わたしであることと、わたしでないこととの間の、また、わたしの夢見ることと、生きることによりわたしが作り上げられたものとの間の間隙であり、取るに足らないものの抽象的で肉体をそなえた平均値であり、わたしもやはり取るに足らないのだ。

(『不安の書【増補版】』p.40より)

わたしはそのどれにも関心がなく、そのどれもほしくない。しかしそのほとりに大きな都市があるのでテージョ川を愛する。下町の通りの五階から見えるので空を娯しむ。グラッサやサン・ペドロ・デ・アルカンタラから見た、月影の静かな都市の不揃いな壮大な姿に匹敵するようなものを野も自然もわたしに与えてくれはしない。太陽のもとリスボンの見せるさまざまな色合いに匹敵する花はわたしには存在しないのだ。
(『不安の書【増補版】』p.306)

■エドゥアルド七世公園(p.88)~アグアス・リヴレス水道橋(p.90)→【徒歩で34分】

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ペソアはこのエドゥアルド七世公園を、"リスボン最高の行楽地"と呼んでいます。そこには異国情緒に満ちた植物園があるそう。

この場所は、一九一七年十二月五日、シドニオ・パイスが数連隊のリスボン守備隊とともにたてこもり、軍務大臣ノルトン・デ・マトスの「民主政治」を覆したところである。これほどの重大事件でないにしろ、ここが数々の革命運動の拠点に選ばれてきたのには理由がある。ここからは町とテージョ川を一望できるのだ。
(本書p.86)

エドゥアルド七世というのは1902年〜大英帝国の国王となったエドワード七世のことで、なんでその人の名前が公園についているかというと1903年にイギリスとポルトガル同盟強化のためにリスボンを訪れたことを記念して整備されたことからだそうです。

↑ エドゥアルド七世公園。
エドワード七世はヴィクトリア女王のあとに1902年に即位し、日英同盟を進めた人でもあるそうで、即位後欧州各国を回って外交していたようです。放蕩でも有名だそうです。
イギリスとポルトガルの同盟は1386年に、シェイクスピアで有名なあのリチャード二世の従兄妹と、ジョアン一世との結婚で始まる同盟(ウィンザー条約)まで遡れるとも言います(近現代に入ると貿易摩擦や植民地の話で揉めたりしていて、同盟というより対英従属という部分もあったようですが)。
ここで公園を紹介するのは、当時覇権国家だったイギリスと仲良くしてできたエドゥアルド七世公園を”最高の行楽地”とアピールをすることで、ヨーロッパにおけるポルトガルの地位をよりPRしようとしたペソアの作戦かな?とか少し思います。

あと「シドニオ・パイスって誰だよ?」って話ですよね。
シドニオ・パイスはポルトガルの軍人、政治家で、「パイスは、大衆の熱狂的な人気を引きつけるカリスマ性を備えた新しい型の政治家であり、ムッソリーニ、ヒトラーの先例として注目される」(『増補新版 ポルトガル史』p.204)人で、民衆の熱狂的な歓迎を受けて最高権力者(大統領国王と呼ばれた)になるも、その一年後に暗殺されてしまいます。
ペソアは彼にも本書を含めたポルトガル国家、産業のアピール計画を提言しようとしていました。
なぜそんなことをペソアが意図していたかは、さっき半島戦争の話のときにしたサウドディズモ運動の話や、ナショナリズムの話につながると思うのですが、私では書けないのでこの話は終わりだ!解散!

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↑ シドニオ・パイス。
ナポレオンや、ヒトラー同様、写真からはカリスマ感あんまり感じませんけれど、こういうものなんでしょうか。カリスマ感のない人間こそ気をつけなければいけないのかもしれません。

■アグアス・リブレス水道橋(p.90)~エストレラ大聖堂(p.93)→【徒歩34分】

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アグアス・リブレス水道橋は、水道橋というから私はてっきりローマ時代からあるのかと信じていたのですが、こちらの建造は18世紀だそうで全然違いました……恥ずかしい。

すべてが非現実的な、わたし自身の心象風景では、いつもはるか遠くのものにわたしはひかれ、霞にくもる水道橋は夢見た風景の地平線上にあり、風景の他の部分に夢の優しさを感じさせ、そういう風景をわたしに愛させる優しさがあった。
(『不安の書【増補版】』p.431)

↑ アグアス・リブレス水道橋。
また、本書にも書いてありますが、このアグアス・リブレス水道橋からエストレア大聖堂に向かう道の途中にペソアの家があります。こちらは現在ペソア博物館になってますので、絶対に行ってください。ここも私は縁がなくて行けてないので……(血の涙)。

↑ フェルナンド・ペソア博物館

ちなみに上の地図の端に見えるブラゼーレス墓地は、ペソアが最初埋葬されていた場所でもあります。現在、ペソアの遺骸は移転され、世界遺産でもあるジェロニモス修道院に眠っています。このエピソードも、いかにペソアが生きているときは認められず、死後に評価が高まったかがわかる話ですよね。でもペソアは本当にジェロニモス修道院で眠りたかったのだろうか……都市の孤独者よろしく、ひっそりと眠っていたかったのでは?と思わなくもない。

■エストレラ大聖堂(p.93)~農業高等学院(p.96)→【徒歩で36分】

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エストレラ大聖堂を作ったのは女王マリアという人で、この人は上述したボンパル侯爵を嫌い、権力から遠ざけましたが、半島戦争が起きるとブラジルに逃亡してしまいました。彼女はそのままブラジルで亡くなったものの、半島戦争後、ポルトガルに王が戻ってきてから、彼女はエストレラ大聖堂に埋葬されました。

エストレラ大聖堂の前にあるエストレラ庭園はペソア曰く「リスボン一快適な庭園だ。」とのこと。

↑エストレラ大聖堂。道路を挟んだ向かい側がエストレラ庭園。

午後のエストレーラ園はわたしには、精神が満たされなくなる何世紀も前の、旧い公園を暗示する。
(『不安の書【増補版】』p.563)

■農業高等学院(p.96)~メモリア教会(p.99)→【徒歩で35分】

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メモリア教会は、

この教会は、一七五八年にこの地で暗殺の難を逃れたジョゼ1世が、その「記念(メモリア)」として建設した
(本書p.99)

ものだそうです。
ジョゼ1世は先ほど触れたマリア1世の父で、ボンパル侯爵に権力を与えた人です。ボンパル侯爵の遺体も現在はこちらに埋まっているとのこと。
ちなみにこの途上にアジュダ宮殿というのがあって、このアジュダ宮殿はリスボン大地震で崩壊した王宮の代わりにジョゼ1世によって建てられたものです。
ここでメモリア宮殿→アジュダ宮殿という流れでガイドをするペソア…。こういうところにもペソアの親切心を感じてしまう私、なんだか心がポカポカする……。これが、片想い……?
ペソアはその隣にあるアジュダ植物園(これも「ボンパル侯爵の命で作られた」わざわざ書いてある)も褒めており「ここから眺めるテージョ川の景色は実に素晴らしい」とのこと。ちなみにアジュダ植物園のグーグルマップの日本語表記はボターニコ・ダジューダ庭園になっています。

↑ アジュダ植物園。向こう側に見えるのはテージョ川。

■メモリア教会(p.99)~ジェロニモス修道院(カザ・ピア、民族学博物館)(p.108)→【徒歩で23分】

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さて、ジェロニモス修道院へ向かいましょう。ジェロニモス修道院といえば、大航海時代Ⅲでポルトガル出身を選ぶと一番最初に発見できる建物ですね。ペソアはジェロニモス修道院を特別褒めていて、

リスボンを訪れて、これを見ずに帰る人はなく、見たら絶対忘れることのできない、まさしく石の芸術品だ。事実、このジェロニモス修道院は、リスボンの歴史的モニュメントの最高峰といっても過言ではない。
ー中略ー
ジェロニモス修道院の見学は、本気で全部を見ようとすれば、どうしてもゆっくりとしたものにならざるをえない。というのは、そこにあるものがすべて、ひとつひとつじっくりと鑑賞することを強いるからだ。

(本書p.108)

と絶賛で、実際世界遺産でもあります。登録は1983年。
カモンイスとヴァスコ・ダ・ガマ、ポルトガルを海上帝国にしジェロニモス修道院を作らせたマヌエル1世も眠り、そして現在はペソアも眠るこのジェロニモス修道院には、大興奮せざるを得ない。

■ジェロニモス修道院(カザ・ピア、民族学博物館)(p.108)~ベレンの塔(p.111)→【車で2分+徒歩で4分】

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サウーデ小路の指定があるのですが、Google マップだとどうしても通れなかったので、二枚にしました。当時のカザ・ピアの建物は現在は海洋博物館になっています。ちなみにこのカザ・ピアの説明は、

このカザ・ピアは、寄付と宝くじの収益金によって運営されている福祉施設である。八百人近い人々が、ここで寝起きしながら仕事に必要な技術を学んでいる。また、社会で働き口を見つけたものの、まだ生活に十分な収入を得られない人や、大学や専門学校に通っている人に対しては、資金面での援助も行っている。リスボンの慈善教育施設のなかでも長い歴史をもち、かつ、活発な活動を続けているもののひとつである。
(本書p.108)

カザ・ピアはさっきも出てきたマリア1世によって創設され、現在も親の支援を受けていない若者を支援する活動を行っています。ただし、近年カザ・ピアには児童虐待にまつわるスキャンダルがあったようです。

さて、ジェロニモス修道院からベレンの塔へ。
ジェロニモス修道院とベレンの塔は合わせて世界遺産です。こちらもとにかく美しい建物です。
実際に行くと観光客がめちゃくちゃいるけど、Google マップなら煩わされることもない。
Google マップ、最高じゃん。

外から眺めたベレンの塔は、まさしく石の宝石というにふさわしい。この姿をはじめて目にした者はみな、独特の美しさに最初は驚き、やがてうっとりと見とれてしまう。建物を飾るレース細工、それも繊細なことこのうえないレース細工と見えるのは実は緻密な石の彫刻である。これがはるか彼方からも白くきらめき、テージョ川から船で入る人々の目をふいに射るのである。
(本書p.109)

ペソアがドレスのレースに喩えたベレンの塔、司馬遼太郎は「テージョ川の貴婦人」と評したそう(『地球の歩き方 ポルトガル』より)で、天才かお前ら。
1521年に完成したベレンの塔を眺めながら、インドやブラジルへ向かう船を想像しただけで、サウダーデを感じてしまう建物。まさしくリスボンを代表する建物。本当に美しい……擬人化されたら告白したいくらいだ。
世界の美しい建物を擬人化した刀剣乱舞ならぬ建物乱舞として恋愛シュミレーションゲームとか出たら絶対推しにすることに決めました。

■ベレンの塔(p.111)~アフォンソ・デ・アルブケルケ広場(p.112)→【車で2分】

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くちばしの家の部分でも言及しましたが、アルブケルケはインドのゴアの総督で、ホルムズ(現在のイラン領)の占領を行った男。ペソアは「もっとも偉大なインド総督にして近代帝国主義の確立者」(本書p.112)と書いています。

↑ アフォンソ・デ・アルブケルケ広場。

ちなみにアフォンソ・デ・アルブケルケ広場の隣はヴァスコ・ダ・ガマ庭園となっていて、なかなかナショナリスティックな並び。日本で言えば上野の西郷隆盛像の隣の公園に坂本龍馬像を建てるようなものでしょうか。

■アフォンソ・デ・アルブケルケ広場(p.112)~馬車博物館(p.117)→【徒歩で11分】

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さて、馬車博物館の記述も割と長めにとってあります。少し長いですが引用します。

これは一九〇五年に王妃アメリアの提唱でつくられた、大変珍しい博物館だ。収蔵品は六十二台の華麗な馬車をはじめ、王家の使用人の制服や仕着せ、王家専用舟の制服、馬具、あぶみ、拍車、ボタン、版画、肖像画など。ヴェルサイユやマドリッドにも同様の博物館はあるが、このリスボンのものが一番すばらしい。
(本書p.113)

と、ヴェルサイユとマドリッドとも比べるほどの絶賛なんですが、え、ペソアって旅したことあるの?!っていうかスペインはまだしもフランスまで行ったことあるの?!と突然思ってしまった。
引きこもりじゃないの?なんだよ、ペソア、すげぇアクティブじゃん。(なぜか寂しい)
馬車博物館は、現在の地球の歩き方にもばっちり載っているので、是非足をお運びください。

↑ 馬車博物館。

■馬車博物館(p.117)~古美術館(p.122)→【車で9分】※正確なルートではないかも

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すみません、ここは正確なルートでないかもしれません。24 デ・ジューリオ通り沿いから進むのではなく、ブラジリア通りから進んで、降りてから徒歩でブラジリア通りを渡り、古美術館へ行くのかもしれません。
というのも、

左手に植民地病院を見ながら、そのまま進む。それから順々にサント・アマーロの市電車庫、海軍兵舎、アルベルタス庭園を通り過ぎる。
(本書p.117)

とあり、この道の行き方だと右手に見えることになるためです。おわかりの方いればご教示ください。

■古美術館(p.122)~国会議事堂(現在の共和国議会)(p.123)→【徒歩で18分】

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↑ こちらが国会議事堂(共和国議会)。
これでペソアの指定は最後なんですが、最後が国会議事堂で終わるところ、すごくいいなぁと思うんですよね。
最後をここにする必要もないわけです敢えてのことだと思います。
でも個人的によりいいのは、

国会議事堂の右翼は、国立公文書館、通称トーレ・ド・トンボ(「資料の塔」の意)になっている。
―中略―
収蔵品のなかには、史的資料としての価値が高い(往々にして。はかりがたいほど高い)貴重な版本、重要かつ興味深い外交記録が含まれている。その資料の端々に、ポルトガルが独立国家として産声をあげてから今日にいたるまで歩んできた歴史を読みとることができるだろう。

(本書p.123)

という風にあって、いろいろなところを案内したけど、「ポルトガルの歴史を案内するための資料、本がそこにある、それが一番のガイドであり誇りだ!」みたいに言ってるように聞こえるペソア……
そのポルトガル愛、しっかり受け取ったっ!

いかがでしたでしょうか?

本書はもう少し続いて、リスボンの夜間ツアーと、ポルトガルの他の地域の案内が始まるのですが、私のGoogle マップでいく、『ペソアと歩くリスボン』はこれで終わりにします。
お疲れ様でした。

ちなみにGoogle マップでの移動総計時間は557分。
つまり9時間28分。(もしかしたら本当は移動は全部車かもしれません)
美術館とか修道院とか公園とかもあるので、その中をしっかり見ようとしたら絶対1日では終わらないツアーでした。
そんな欲張るペソアも好き。


3.あなたにとって旅とは?

皆様にとって旅とはなんでしょうか?
人によって色々想いがあると思います。
そもそも根っからのバックパッカーというか、ジプシーみたいな人もいるでしょうし、自分がいた環境が悪くて逃げ出さなければいけなかった人や、新しいところをとにかく見てみたい人などなど、様々だと思います。

私の話をすれば、最初にも書いたように旅が苦手なんです。
新しいところはいつだってドキドキするし、気が落ち着かない。
自分の知らない何かが自分の心を脅かし、焦ったり、”自分ができない”と思わないで済むのは家とか故郷だけ。
冷暖房、お酒&おつまみ完備、心地よい部屋、イレギュラーなことが起きて自分に選択が求められてパニクることもない家。
旅先のように「言語ができなくて気持ちを伝えられない」みたいな、自分ができないことをまざまざと見せつけられて自信をなくすこともない。
家はいい。家は最高だ。

でもだからといってずっと家にいたいわけではないんですよ。
だって現実ってクソじゃないですか。

毎日あくせく働く仕事も、いびつな社会と政治も、自分でだめにしてしまった人間関係も、何より何もできない自分も、今までずっと続いてきたのに、この先もうんざりするくらい続いていて、息が詰まりそうです。
ずっと音楽を聴いて外界を遮断してるのはゲンドウだけじゃない。

こんな現実に疲れてしまったとき、私は無性に旅に出たくなります。
そう、私にとって旅とは逃げ道なんです。こんがらがった現実や自分から逃げたしたい。ここではないどこかへ胸を焦がしに(突然のGLAY)、新しい世界に行きたい。
ここが私のアナザースカイ」って言いたい。

わたしの望みは逃げ出すことだ。知っていることから逃げ出す、自分のものから逃げ出す、愛するものから逃げ出すことだ。高嶺の花であるインド諸国や南の果ての大きな島々ではなく、この場所ではないどこかへ――村でも未開地でも――旅発ちたい。もう二度とこういう顔、こういう習慣、こういう日々を見ないでいたい。我を忘れて、わたしの生まれつきの偽装をやめて休みたい。
『不安の書【増補版】』p.148

都市にいるのが好きになれるように、わたしは田舎に行ってみたい。そうでなくても、都市にいるのが好きなのだが、そうであれば、二倍好きになるだろう。
『不安の書【増補版】』p.444

実際、旅先はとても楽しい。
解放的な気持ちになれるし、誰も知らない街で「もともと私は匿名で何者でもないのだ」と思い、自分という存在を取り戻すことができます。それに古い自分を乗り越えることもできる。

でも同時に、そのまま根無し草になりそうで、少し不安になる。家への感傷やノスタルジーが湧き上がってきて、複雑な気持ちになります。
「でもお前の現実はあんなにひどかったじゃないか。つらかったし、戻りたいと思うのか?」とか「あの人との関係壊してしまったでしょ?それも全部自分のせいでしょ?仕事も給料は安くて忙しいばかり。かといって現実を変えられる力も自分にはないでしょ?ほら、もう帰りたくないでしょ?」ともう一人の自分が質問してきます。
それでも「やっぱり私は家がいいな」と答えて帰ってきています。
外に出てみて、元に居た場所を振り返ってみると、家には根があった、気がする。
で、実際に帰ってみると、案の定現実はクソなんですよね。
そしてまた旅に出たくなるの繰り返し……。

こういうことってみんなありますよね?

ノスタルジー:我が家にいるとはどういうことか? オデュッセウス、アエネアス、アーレント』(花伝社)という本に、「ノスタルジーには、さまよいを求める欲望と、帰りたいと家とか故郷を思う望郷という二つが同時に存在しているのだ」みたいなことが書いてありました。しかも望郷で思い起こされるのは何も故郷とかの場所だけじゃなく、学生時代とか、人間関係とか、そもそも体験したこともないけど想像した世界とか、愛着のあった過去の世界とかも望郷の対象になるわけです。
それを取り戻したいと思うけれど、叶わないという現実が、悲しさとつらさを連れてきて、胸をかき回される。
それは、あの人と一緒に行った花火大会、学校の帰り道、大事な友人との飲みの席、あの仕事をしていたとき、家族と過ごした時間、祖父から戦争の話を聞きつつ酌み交わしたあの日かもしれない。突然夢に出てきて胸を震わせたりする。
でもそんな記憶や思い出は、すべて再び手に入れようがないわけです。
ペソアからはそういうノスタルジーというか、「サウダーデ」を私は感じます。
(今や新型コロナウィルス前の世界も、ノスタルジーの対象であることは本当に苦しいことです。)

実際、故郷とか家とか、自分の居場所ってとても重要ですよね。
特に「実家とも仲が良いわけでもない、かといってコミュニケーションが上手なわけでもないから友達もいない、仕事も充実していない、リア充みたいになりたいわけじゃないけれど憧れてもいる」みたいな人にとって、承認され、我が家にいると思えるような家というか故郷みたいな場所はより重要だと思います。
しかもこういうことは「何者かでいたい」という承認欲求や自己実現欲求とも関わっているからより厄介ですよね。私も「何者かでいたい」と思っているのに、結局「何者にもなれない」からいつも暗いベッドの中で何かを叫んでいます。
なのに、いや、そうだからこそ故郷みたいな現実にはなかなか場所はないし、私たちみたいな人間はそもこも築くことができなくて、やっぱり我々はどこかで根無し草で、故郷や居場所を泣きながら探し求めて、歩いてるわけです。

なんでこんな話をしたかと言うと、そういう自分の居場所とか帰属感とかノスタルジーの行先の一つに、愛国心とか忠誠心の話が出てくることがあって、本書のペソアもそういう部分とも関わりがあるような気がしたんです。
ペソアの生まれはリスボンですが、家族の事情で南アフリカのダーバンに16歳まで住んでいて、そこからリスボンに住処を移しました。
ダーバンでは「ポルトガルってどこだよ?知らないなぁ」と言われていじめられ(盛っています)、悔しくなり(盛っています)、彼は自分のルーツを「ぼくは航海者の民族、帝国を創設した民族の一員だ。」と記しました。彼にとっても自分の故郷とか居場所というものは一つのテーマであり続けています。本書に出てくるペソアがナショナリズムにあふれているのは、こういった理由もあります。

でも個人的にはペソアを読んでいると、帰属すべき場所が国家とか社会とかで一つだけではなく、「複数の居場所を自分のある程度自由に選択できるようにした方がよい(故郷だけが一つあるというより、落ち着ける常宿がいくつもあって選べるような)」と言っているように思います。ペソアが異名者をたくさん作ったように、故郷とか、居場所とかも一つだけのもとするのではなく(一つだけだと国家なのか社会なのかカリスマ性のある何かに絡め取られてしまうかもしれないですから)、たくさん作った方が生きやすいということを教えてくれているような気もします。

生きている間ずっと帰属感を抱ける家とか故郷とか共同体のような居場所なんてないし、誰かに「帰属感を抱け」と言われたからって抱く必要もないと自分に言い聞かせるのは、そしてそこから逃げてもいい、ということは生きる上で大事なことだ。時の変化もあるし、自分の変化もあるし、そもそも誰かに私が好きどうかを誰かに指示されたくもない。大切な居場所もいずれはなくなる。居場所が一定しないのは寂しいことだしつらいことでもあるけれど、決して悪いことばかりでもない。

そういえば、ペソアの研究者であり作家としても高名なタブッキも、

そう、ひとつは、自分のルーツをしるす家、一族が代々暮らしてきた家(これはわたしにとってかけがえのないものだ)。そこでわたしは子ども時代を過ごした。ピサの近くにあるヴェッキアーノという田舎の町だ。それからッフィレンツェにアパートを構えている。大学での仕事をするためにね。でもわたしにとってルーツとなる家は田舎の家だ。あるいは、わたしはポルトガルでかなりの時間を過ごす。それにパリにもよく出かける。いま大事なのは、国境にとらわれないことだ。属するなら世界全体にであるべきだ。
『タブッキをめぐる九つの断章 (境界の文学)』(共和国)p.90

と書いていました。私たちは必ずしも一つの場所に縛られて、そこに属さなければいけない、ということはないわけです。

現実は生きてるだけで大変だ。
人生は長くて難しい。考えることが多すぎるし、初めてのことばかりだから失敗ばかりで嫌になる。
ペソアが言うように、

人生は無意識に行われる実験的な旅だ。
(『不安の書【増補版】』p.436)

なのだからそれはもう仕方ない。
この先の旅でも行く先々で毎回失敗して、泣いて、新しいことばかりでドキドキしっぱなしだけれど、それでもこの旅路を歩んでいくしかない。
こんな旅の途上のあるとき、「居場所がない」「根無し草がつらい」「誰も理解してくれない」「寂しい」と思ったら、近くのレストラン(これは中二階のレストランを想像するのがいい)に入ってみてください。そこには眼鏡をかけた知らない人が座っています。名前も知らないし、挨拶をしてもよそよそしいと思いますが、なぜかその人が少し遠くにいるということだけで、少し痛みが和らぐ……それがきっとペソアです。

皆様のこれからの旅路も、素敵なものでありますように。

リスボンには品のよい居酒屋といった店構えの階上に、汽車も通らぬ田舎町の食堂さながらに野暮ったく、家庭的な雰囲気の中二階をそなえたレストランや飲食店がいくつかある。日曜日を除けば客足の悪いそのような中二階に上がると、風変わりな人間、興味をひかない顔に出会ったり、日常生活における一連の傍白を耳にしたりすることもまれではない。
落ち着いた雰囲気を求めて、また、値段も手頃なこともあって、私は生涯のある時期そうした中二階の常連になっていた。ところが、夕食をとろうと七時前後に出かけてみると、毎回のようにある男に出会い、初めはなんら興味も感じなかったのだが、徐々にその男の様子に心ひかれるようになった。

(『不安の書【増補版】』p.13)


4.あとがき

長いお時間お付き合いいただきありがとうございます。
この記事を書こうと思ったのは2019年に『ペソアと歩くリスボン』のツアーを組んで旅行代理店に営業してみたらどうなの?みたいな話が所属していた会社であって、実際どんなツアーになるのだろうかと思ってGoogle マップで調べたのがきっかけです。
前回のペソア紹介記事よりも早い段階で書こうと思って、書き始めた最初のころはリスボン観光案内はペソアが愛をもってしてくれてるし、Google マップを貼っておけばよいだろうと侮っていましたが、途中から、ペソア、リスボン、ポルトガルの歴史、文学、芸術、建築ほかすべてにについて私が無知かに気付いてしまい、何度も諦めてしまおう……と思いましたが、先述した通り「Twitterでグーグルマップを眺めながら読んだ」という話を見て勝手に励まされたりして、とにかくできる範囲でまとめました。
そして新型コロナウィルスに伴う緊急事態宣言で外出もままらない中、せめてGoogle マップでリスボンに行ったつもりになれるような記事になればいいなと思っています。

実は本音を言うと最初に『ペソアと歩くリスボン』を読んだときは、少しだけがっかりしました。
本書に出てくるペソアはどこかよそよそしい気がする......
というと語弊があるかもしれませんが、『[新編]不穏の書、断章』や『ポルトガルの海』や『不安の書【増補版】』に出てくるペソアと違うというか、まぁ端的に言えば期待していたペソアと違うと感じたのです(もちろんそんなペソアも私は好きなんですが)。現実に今ペソアにツアーを頼んだらこれくらいよそよそしいとは思いますが、いつもの"あの"都市の孤独者として、部屋にポツンと残された自分の気持ちを代弁してくれるようなペソアじゃない気がしたんです。
これは本書あとがきに詳しいことですが、このペソアはポルトガルをPRするためのペソアで、"行動の人"ペソアなんですね。ヨーロッパで遅れたポルトガルを引き上げるための"行動の人"、起業家のようにアクティブで、「世界は感じない人間ものだ。実用的な人間になるための本質的な条件は感性に欠け」たペソアなんだなぁと思いました。

ところが読めば読むほどに、「ペソアがリスボンを紹介するときになぜこれを選んだのか?」とすごく考えさせられるようになりました。
そもそも最初に選んだのが港なのはなぜ?
なぜこの道を選んだの?
レストランの掲載がないのは?などなど。
そういうのを見ているとところどころに強い意志を感じます。
読んでいるうちに「あれ?情念を感じるここの部分、もしかしてこれが"本物"か……?」と思わされていました。もちろんペソアに本物とかいう概念が当てはまるとは思わないのですが、でもいつの間にか「あれ、こんな情念を出しているペソアを知ってるの、もしかして私だけ?ペソア独り占め?」という、好きな人の自分だけが知っている部分があると思って嬉しくなった感覚になったのは私だけではないはずだ!
本書を読んでよりペソアが身近に感じられるようになるなったのは私だけではないはず!
そしてなによりリスボンとポルトガルに行きたくなったのは絶対私だけではないはず!
本書はそんな魅力を持っている素晴らしい本です(強引にまとめましたね)。

本当なら『ペソアと歩くリスボン』を紹介するためには、ポルトガル史はもちろん、ポルトガル国家を称揚しまたポルトガル文化を国際的にPRするペソア、そしてまたサウドディズモなどの文学史についてしっかり触れ、何よりペソアの本質に関わるナショナリスティックな部分を書かなければ不完全かなとも思いました。
しかしそこまで書くには私の浅学では到底扱いきれなかったため、いずれも簡単に紹介する程度に留めました。
それでもこれを公開したのは、 ペソア(ソアレス)の、

決して出来上がらない作品はろくなものではないだろうということを知っておいてよい。しかしながら、手がつけられさえしないものはさらにろくなものではないだろう。手がつけられた作品は少なくとも出来上がる。身体の不自由な隣の女性が持っているたったひとつの花瓶に生けられた貧弱な植物のように、貧弱だろうが存在している。その植物は彼女の悦びであり、時にはわたしの悦びでもある。わたしの書く、しかも出来の悪いと認めるものも、いかにろくなものでないにせよ、一人、二人の傷ついたり悲しんだりしている人にはしばし気晴らしになりうる。わたしにはそれで十分でも不充分でもあるが、いずれにせよ、それで役に立ち、一生そのようなものだ。
(『不安の書【増補版】』p.408)

という言葉を信じたこと、また、本書の素晴らしい魅力、またペソアの魅力を伝えたかったからです。(創作する人に優しいペソアも好き)
是非間違いがあればご指摘をいただければと思っております。

何度も書きますけれど、どんな人にとっても人生は生きてるだけで大変です。
特にプライドばかり高くて、そのプライドを折られたりするのに臆病で、人から嫌われるということをとても怖れていて、嫌われたくないので誰にも連絡できなくなるというような人間、無限の承認欲求に詰められて、コミュニケーション力も十分でない人にとっても、人生はつらく、厳しく、何より長いです。
そして私はこういう人たちにこそペソアを知ってほしい、とずっと思っています。この拙文をお読みいただいて、少しでもペソアの良さに気付いていただいたら、本当に幸せな限りですので、私はたくさんビールを飲むことにします。

本書の最後に「ぜひ地図を広げて読んでほしい」という訳者である近藤さんの言葉が記されています。
そこから時代を経て、地図はいつの間にかGoogle マップが主流になっていました(それにも少しノスタルジーを感じますね)。
Google マップ片手に本書を読む良さは、「車に乗って中心街へ出発だ」というペソアの一言でさえ、どのように車を走らせたのかまで追体験できるとところにあります。
もちろん、想像力だけで読んだり、地図を広げたりして読むのも最高です。それはどの本もそうです。そもそも本は想像力だけで読むものでGoogle マップなんか使うのは邪道だ、なんてお叱りも受けるかもしれません。
でも私のように想像力が足りなくて方向音痴な人間で、読んでるだけだとチンプンカンプンな人間にとっては悪くない、いやとてもいい読み方だと思います(そもそも本の読み方は自由ですし!)。
特に今みたいに新型コロナウィルスで海外へ行くハードルが高い時代なら、作家の紀行文をGoogle マップで旅するのは、とても楽しいような気がします。

最後に、『ペソアと歩くリスボン』の刊行に大変感謝しています。
ペソアが翻訳された世界に生まれたことに感謝しかありません。もしペソアが読めない世界に生まれていたら、私はもっと早くに絶望に打ちひしがれていたに違いないし、生きてこれたかもわからないというのは本音です。
ペソアを訳された皆様にあらためて感謝申し上げます(こう考えると作品が読める形であるということは本当に大切なことで、素晴らしいことですね。それが存在するかどうかで一人の人間の生き死に影響を与えるんですから)。
著者はもちろん、翻訳家の方や、作品を出してくれる出版社、そして出会いの場を提供してくれる本屋に感謝しています。

最後に、皆様が早くペソアのいるリスボンへ行ける日が来るよう祈っています。

■『不安の書【増補版】』から"旅"が付く、好きな部分を拾ったもの

感じることのできない者が旅をするのは理解できる。したがって、旅の本は経験談の本と同様にいつも貧しく、もっぱらそれを書く人の想像力によって価値が決まる。そしてそれを書く者に想像力があれば、想像した風景を事細かに軍旗並みの大きさに写真に撮ったように描写したり、見たと思った風景を、したがってそれほどこと細かでなく描写したりしてわれわれを魅了する。れわれれは内面を見るとき以外は、誰もが近視だ。ただ夢だけが見るとき見えるのだ。
ー中略ー
われわれは自分自身のなかを永遠に歩く人なので、われわれ以外に風景はない。われわれは自分自身すら所有していないので何も所有していない。何者でもないから何も持っていない。わたしはいかなる宇宙に向かっていかなる手を伸ばそうとするのか?宇宙はわたしのものではない。わたしなのだ。
(『不安の書【増補版】』p.443)

旅するごとに、わたしは広く旅に出る。カスカイスまでの列車の旅から持ちかえる疲労は、そのわずかな時間のうちに四、五カ国の田舎や都市の風景を巡り歩いたかのようだ。
通り過ぎるそれぞれの家、それぞれのシャレーふうの家、それぞれ白く石灰塗料を塗られた静かな孤立した家――その一軒一軒の家で一瞬わたしは自分が最初幸せに、後に退屈して、さらに後に疲れて生きていると実感する。そして、そこを離れた後に、そこで生きた時間をとてつもなく懐かしく想っているのを感じる。したがって、わたしの旅はすべて、大きな悦び、とてつもない倦怠、無数の偽りの懐かしさを痛ましく幸せに感じつつ穫り入れたかのようだ。

(『不安の書【増補版】』p.444)

旅をするという考えは、まるでわたし以外の誰かを魅惑するのに適しているというかのように、人の身になって感じるわたしを、魅惑する。世界の広大な光景全体が色とりどりのもの憂げな動きでわたしの目覚めた想像力を横切っていく。もはやいかなる身振りもいとうかのように、わたしは望みをわずかに漏らし、ありうる風景にあらかじめ感じた疲れが突風のように、わたしの淀んだ心の表面を乱す。
(『不安の書【増補版】』p.447)

われわれが物笑いの種になったり下劣になったりひどく遅れたりした、あの人生の不幸な出来事は、すべてわれわれの内面の穏やかさに照らしてみれば、旅の途中の不快なこととして考えるべきだ。この世では、われわれは無と無との間を、あるいはすべてとすべてとの間を、いそいそと、あるいはしぶしぶ旅する者だが、道中の災難や旅先での損害をあまり重大視してはならない単なる旅人なのだ。これが慰めになるからか、このことに慰めがあるからか分からないが、わたしにはこれが慰めになる。しかし、その架空の慰めは、あまり突きつめて考えないなら、わたしには本物になる。
(『不安の書【増補版】』p.239)

旅をすることを考えると吐き気を催す。
すでにわたしはそれまでに見たことのないものをすべて見た。
すでにわたしはまだ見たことのないものすべてを見た。

(『不安の書【増補版】』p.437~438)

旅をするだって?旅をするには、存在するだけで十分だ。わたしは日々、駅から駅をゆくように、自分の身体や運命という列車に乗って、結局のところ風景のようにいつも同じでいつも異なる街路や広場、顔や仕草を見ようと身を乗り出してゆく。
わたしは想像すると見る。旅をして、わたしはほかに何をするだろうか?感じるには移動しなければならないと思うのは、想像力が極端に乏しい場合だけだ。

(『不安の書【増補版】』p.439)

5.参考書籍的な、メモ的な、関連書籍のご案内的な


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『ペソアと歩くリスボン』(彩流社)
フェルナンド ペソア 著、 近藤 紀子 訳

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『不安の書 【増補版】』(彩流社)
フェルナンド・ペソア 著、 高橋 都彦 訳

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『新編 不穏の書、断章』 (平凡社ライブラリー)
フェルナンド・ペソア 著、 澤田 直 翻訳

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『ポルトガルの海 増補版: フェルナンド・ペソア詩選 (ポルトガル文学叢書 (2))』 (彩流社)
フェルナンド・ペソア 著、 池上 岑夫 編訳

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『アナーキストの銀行家;フェルナンド・ペソア短編集』(彩流社)
フェルナンド・ペソア 著、 近藤 紀子 訳

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『現代詩手帖2015年7月号』

フェルナンド・ペソーア研究 : ポエジーと文学理論をめぐって
渡辺一史 著

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『ポルトガル短篇小説傑作選 (現代ポルトガル文学選集)』(現代企画室)
ルイ ズィンク 編集、 黒澤 直俊 編集

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ポルトガル初のノーベル文学賞受賞者であり、『白の闇』の著者でもあるジョゼ・サラマーゴもポルトガルの歴史と観光の本”Journey to Portugal: In Pursuit of Portugal's History and Culture"を出しています。いつか翻訳出ないかなぁ。
ちなみに私は英語全然できないので、未読です。(でも買った。)

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『ノスタルジー:我が家にいるとはどういうことか? オデュッセウス、アエネアス、アーレント』(花伝社)
バルバラ カッサン 著、 馬場 智一 著

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『大航海時代 ――旅と発見の二世紀』(ちくま学芸文庫)
ボイス ペンローズ 著、 荒尾 克己 訳

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『交易の世界史 上 ・下』(ちくま学芸文庫)
ウィリアム バーンスタイン 著、 鬼澤 忍 訳

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『増補新版 ポルトガル史』(彩流社)
金七 紀男 著

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『ペソア詩集 (海外詩文庫)』(思潮社)(品切れ)
澤田 直 訳


『現代詩手帖1996年6月号』(思潮社)(品切れ)


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『地球の歩き方 ガイドブック A23 ポルトガル 2019年~2020年版』(ダイヤモンド社)

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『タブッキをめぐる九つの断章』(共和国)
和田 忠彦 著

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『たちどまって考える』(中公新書ラクレ)
ヤマザキマリ 著

『サウダーデとポルトガル人』(天理大学学報 第65巻第1号)
深沢 暁 著

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『リカルド・レイスの死の年』(彩流社)
ジョゼ・サラマーゴ 著、岡村 多希子 訳

フェルナンド・ペソーアの詩学-「偽名」から「異名」への移行を巡って-
後藤 恵 著


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ペソアTシャツ(彩流社)

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ペソアバッグ(彩流社)

図1

ペソアスマホケース(対応機種:iPhone6/6s/7/8/SE2)


Pessoa Coffee Roasters

金沢にあるペソアの名前からとったコーヒー屋さん。ペソアの姿絵が入った「コーヒー豆入れ」などもありました。


※このあとも追記していくかもしれません。
2021年5月23日、訳者よりご指摘いただき一部を修正しました。ご指摘ありがとうございます!

ペソアが好きすぎてペソアの本とかグッズ(予定)を売るサイトを作りました↓



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