第44話:思い出作り
ぶっこちゃんが認知症になって、最初は自分でもそのことをうすうすにも認識したらしく「ボケてきたかも」とか冗談半分に発言していて、しのぶも「ほんまやな」とか言って笑っていたが、本格的に進んでくると本人に自覚が無くなるのか冗談にもならなくなるのか、そうした発言は無くなる。
そして、発言が無くなるだけではなく、徐々に人格が変わってくる。それが、常に一緒にいるしのぶには如実に感じられ「あ、また進んだな」と少しばかり不安にもなるわけだが、幸いと言って良いのかぶっこちゃんの場合、その人格変容が、かわいい。
ぶっこちゃんでなくとも高齢になると子ども返りするとは聞くが、まさにそのような感じで、まず目つきが変わった。
年相応に皺で囲まれたつぶらな瞳だが、その奥の心はきらきらとした純粋な視線をこちらに向ける。
「ぶっこちゃんお風呂入ろうか」
以前ならば不機嫌そうに「今日はやめとく」などと言っていたのだが、最近は
「お風呂か」
と口数は少なくとも素直にこちらを見て、その視線で「どうすればええのん?」と訴える。
しのぶも慣れたもので寒い時期は浴室暖房をかけて脱衣室は三十分前からオイルヒーターで温める。介護用の椅子を浴室に置き、脱衣室にも木製の椅子を置いて、汚れてもすぐに洗えるようにウレタンの座布団を敷く。そしてカゴには清潔な着替えを着る順番に重ねておく。
しのぶはと言えば半パンにティーシャツでぶっこちゃんを優しく誘導する。
ぶっこちゃんは脱衣室の椅子に腰を下ろすと一仕事終えたように「ふぅ」と言って妄想が始まる。
「あんな、あの子ら運動会や言うねんけどな」
あの子らと言うのは、ここのところやたら増えたぶっこちゃんの幻覚の子どもたちである。しのぶは服を脱がせながら物語に付き合う。と言うか、返事をせずともぶっこちゃんはひとり語りを始める。
「昔は運動会なんて行って雨やったことなんてあらいん」
しのぶは順調に、上の服を全て脱がしながら「そうなん」などと返事する。
「そらそうやなぁ、雨やったら、はなから行かいんもんなぁ」
聞いていると良く出来た笑い話ではないか。しのぶはくすっと笑顔になる。
「おもろいなぁ、はいここ持って立ってよ」
背中をぽんと叩かれてぶっこちゃんは「よっこらしょ」と立ち上がる。そのすきに下を全て脱がせてぶこちゃんにタオルを持たせる。これが合図となってぶっこちゃんは風呂場に移動する。
風呂場に移動したら目の前に椅子があるので反射的にそこにへお尻を下ろそうとするのだが「ちょっと待った」と制してお尻に温かいシャワーをかける。
「わわわわ」
奇妙な声を出すも顔は笑っているぶっこちゃん。すかさず泡の付いたスポンジでお尻を洗ってシャワーで流す。これはもう「尻洗いのプロ」だとしのぶは冗談交じりに自称する。
「もうええか?」
「もうええで」
椅子に座ってまた「ふぅ」と一段落。
次なる物語は何だろうと待つ間もなくぶっこちゃんが話し出す。
「そこやそこ、もう、そこを開けたらうわっと違うところが広がっているから、もう、びっくりしゃっくりでぇ」
「しゃっくりなんや」
また笑かしてくれる。笑いながらも温かいお湯で足先からシャワーを当てる。
気持ちよさそうにするぶっこちゃんに泡のついたタオルを渡すと、腕やら足やらおまたやらを自分で洗う。しのぶはぶっこちゃんの届かない背中を擦ってやると、シャワーで流していっちょ上がり。
椅子からスライド式に風呂の台にお尻を移動させ、片足ずつ順番に浴槽に入れる。ゆっくり、ゆっくり、湯船に浸かるとぶっこちゃんは満面の笑みに変わる。
風呂嫌いというのは恐らく嘘だろう。安全に、苦痛無くアテンドしてもらえさえすれば気持ち良い方が上回る。
「気持ちええか?」
ぶっこちゃんに声をかけながら、この間にしのぶは汚れた服を洗ったり洗濯機を回したりする。
「気持ちええわ」
背後からぶっこちゃんが返事をする。
「あ!」
ぶっこちゃんの声にしのぶが振り返る。びっくりしたような目を向けるぶっこちゃん。
「どないしたん」
「いや、ずずずとお尻が滑って……ほほほ、あまりにキレイやから」
ぶっこちゃんはそう言って笑ってみせた。しのぶもつられて笑顔になるが滑り止めシート買おうかなと頭にメモした。