第55話:希望とは
希望があるから人は生きていけるんだというようなことを、誰かが言っていた気がする。確かフランクルだっけ。
私もそう思う、としのぶは頷く。確信があるわけではないが、自身のわずかの経験から、なんとなくそう感じている。
ぶっこちゃんの老いるのを見ていて、ある時それに疑問を感じることがあった。
本能として、先天的に持っているものによって、人は生かされている部分があるのではないかと。
ぶっこちゃんは幸福を感じることが比較的得意な素質を持っていたのではないかと思う。日常の些細なことに笑えたり、怒ったり、ちょっと嘆いてみたりという、感情の豊かな人だった。
自身の感情、とりわけネガティブな部分にかんしてコントロールが困難だと感じているしのぶとしては、人間味のあるぶっこちゃんを素直に愛おしく感じた。そう、人間味で生きているような裏のない人、それがぶっこちゃんだったとしのぶは思っている。そうした部分を他者からも愛された人なのではないだろうか。
そんなぶっこちゃんだからこそ人の中で喜怒哀楽し、とりわけそのポジティブな感情によって生命力を養われた故にこの年まで生きてこられたのではないか。
そうした人だからこそ、寂しさにはとことんひ弱で、一人二人と家族が遠のく状況に悲嘆するようになり、精神面で生きることが困難になっていった。そうなると元々からある先天的生命力は表面的な調整を図り、いわゆる認知症の症状を呈して生きようとした。妄想はぶっこちゃんの周囲に子どもたちを呼び、死者を復活させ、最も苦手とする孤独から解放させた。ぶっこちゃんには笑顔が戻り、生きるために不可欠な希望を蘇らせた。
周囲の状況からは克服する術を見出せたものの九十年も動かし続けた身体の老いは日常生活に確実に困難を生じさせる。
少々のことはかわして乗り切る寛容で鈍感なぶっこちゃんではあるが、とりわけ「シモの世話」を受け入れる過程には精神を砕かれたようで、周囲への拒否反応はすさまじく平常では聞かれない罵声が飛び、何かが取り憑いたかのように暴れた。
そうなると介助は困難で、ぶっこちゃんが暴れると当然はかどらないし、それを抑えようとすると怪我でもしかねない。かといってやらないわけにいかないのが「シモの世話」である。本人にとっても周囲にとっても、幾日もにまたがる格闘と葛藤の日々が続いた。
そうした老いと葛藤の現状を、他の人は知らない。ヘルパーさんには大変お世話になり、協力して介助することも多々あったが、なにぶん女性の介助を男の幸太はやりにくいし、介助の技法も知らないために、一度腰を痛めてからは役に立たなくなってしまった。
ぶっこちゃん死後、なんにも知らない人が「自宅での穏やかな老衰」を美化した。
「ようやったげたね、なかなかできひんことやわ」
「家で死ねて喜んではるわ」
本気でそう思っているのかは分からないが、近所の人やメイコまでがそんなことを言った。表面だけ見たらそう思うのかもしれない。しのぶは同調しながらも複雑な心境でいた。
生前に戻る。
ぶっこちゃんに葛藤の日々が続いていた。しのぶの目には不思議が写った。トイレが自分でできない苦しみや「シモの世話」をされる恥辱と戦うぶっこちゃんは希望によって生きているのでは決してなかった。だがしかし、確実に生きようとしているのである。
あるときおむつ交換の最中、彼女は言った。
「こわい、死んでまう!」
意志疎通も困難になっていた当時、感情のままに時折発する言葉が彼女の悲鳴だった。介助のためにぶっこちゃんを横向きにした際発せられた言葉だった。苦痛しかないように思える日々であっても、生きようとしているんだ。
しのぶは不思議に思った。一体何がそうさせているんだろうか。そこで、人に元々備わっている生命力なのではなかろうかと、そう考えてみたのだ。
無論、検証はできない。ただ、それ以外に自分に見出せる回答が無かった。
今思えば、死に向かう通過点であったのかとも思える。
ぶっこちゃんは、生きようとしていた。だが死へ向かうレールは確実に敷かれていて、目の前の列車にぶっこちゃんの指定席があったのだ。
だが、その時のぶっこちゃんにはそれが何なのかよく分からなかった。
時折、愛する故人たちが手を差し伸べていて、自分もそちらへ手を伸ばしてみるが……気付くとそこに居るのはしのぶであり、服を脱がされて羞恥をさらけだす現状。
現実の世界にあったはずの「希望」が無くなったということを体験的に気付かされていったぶっこちゃん。
ある朝、いつものように大好きなお父さんが、仲の良かったお友だちが、先立った妹たちが手まねきしているところに駆け寄った。そちらの世界ではちゃんと歩けるし、それどころか若くて快活で心地良い。
ん?遠くで呼んでる声がするけど……
でも今とても気持ち良いから戻りたくないなぁ……
この時既に、下顎呼吸。
しのぶの中での結論。
やはり「希望」が人を生かすのだと思う。今のところ。