第40話:階段
人は、生まれてから段々と老いが始まる。もちろん成長期は、老いとは言わないが、毎日一分一秒ごとに必ず老化していることは間違いない。その終盤に差し掛かり、ある時、これまでやっていたことが出来なくなることがある。そして、時に復活したり衰退したりを繰り返しながら、確実に出来なくなる時が来る。それはまだ、こうすれば出来るという段階であるかもしれないし、誰かに手伝ってもらえば出来ることだってある。ただ、それを自覚する本人の脳が、一番追い付かない。
出来ない状態であっても、まだ出来ると思い込む段階。
うすうす出来ないかもしれないと気付く段階。
出来ないと分かってしまっても、自分で認めたくない段階。
自分で理解しても、他者には言えない段階。
こうした段階は、本人にとっても周囲にとっても大変な時期である。
例えば、トイレについて。
自分で出来ているはずがこぼしてしまっていて、それに気付いてショックを受けるもそれを片付ける所作も大儀になったなら、こぼれていないことにする。若しくは、誰かのせいにする。誰かって、誰もいないのだが。
子どもがテーブルの上のおかしをママに黙って食べてしまって「食べた?」と聞かれて咄嗟に「犬が食べて逃げてった」なんて具合。
子どももお年寄りも、決して騙してやろうなんていう悪気は全く無い。多分、自衛心が働くのではないか。
さて、汚れた下着なんかを部屋に散らかしたままにされたら、部屋中臭くてたまらない。出来るなら、それを自分が洗うことを認めてもらいたいと、しのぶは考えてため息をついた。つまり、世話する者にとっては、年寄りの羞恥の心が邪魔、というのが本音なのだ。
ぶっこちゃんには、徐々に世話されることに慣れてもらいたいし、困っていることを言えるようになってもらいたい。しのぶは、それらを躊躇無く引き出せる環境を作らねばならない。どんな雰囲気で、ぶっこちゃんがどういう状態の時に、何と言葉かけをすれば望ましい行動をとってもらえるのかを頭脳フル回転で考えて実行することが求められる。
更には、期待しすぎないという技術も必要になってくる。
ぶっこちゃんもしのぶも、ひとつひとつ階段を上っている。
常に同じ時は無い。
お風呂が成功すると、ぶっこちゃんもしのぶも嬉しいし、パンツが汚れると、ぶっこちゃんは落胆するだろう。
今日しのぶは、百均で買ってきた蓋付きバケツをぶっこちゃんに見せた。この中に汚れた下着を入れてくれたらしのぶが洗うということを言った。
「そんなに汚れへんしなぁ」
ぶっこちゃんはそっぽを向いて言う。
自己防衛である。
ここで真に受けて「じゃあやめとこうか」なんて言ったら困るのはぶっこちゃんなのだ。本人は、しょっちゅう汚れることを自覚している。その上で、言葉は否定したいのだ。
しのぶは言った。
「めっちゃ汚れてるから、知ってるから大丈夫や」
ぶっこちゃんは否定はせず
「三日に一回か?」
などと、少しだけ話題を逸らす。
「一日三回や」
しのぶは大げさに言ってやった。
大げさすぎて、笑いになる。
しゃぁないな、あんたがそう言うんやったら、なんていう空気に出来たらこっちのもんだ。あとは、覚えているかどうかである。
初めてこのバケツを使う時は、一人きりでも恥ずかしさを感じるだろう。それが、ルーチン作業になるまで、そこまでいったら失禁パンツ問題は、ある程度解消されるだろう。
認知症の在宅での下の世話、他の家庭ではどうされているんだろう。明日、ケアマネさんが来るから聞いてみようかなと思った三月の午後。