第52話:猫
ある朝洗面台のところでしのぶが髪をくくっていると、普段より早く起きてきたぶっこちゃんがやってきた。扉のところに立って、こちらを見ている。
「髪に油つけたらええねん」
しのぶの髪に艶が足りないと思ったのか、若しくは油を付けるのが女子の身だしなみと思ったのか、ぶっこちゃんは女が髪を結う行為を見て「油」を想起したらしかった。
「ベタベタするのが嫌やねん」
しのぶはスタイリング剤の類が苦手で普段は専ら何もつけずヘアゴムで縛っていた。家でぶっこちゃんと過ごす日常におしゃれもないやろうといったところである。それでも以前はヘアアイロンやムースやワックスを使用して髪型を整えてみたりもしていたわけで、今も使わなくなったヘアオイルが家のどこかにあったな、とは思ってみた。ただ、ぶっこちゃんの言う「油」はどうも、相撲取りの鬢付け油を連想させ、それがどういうものかを知らないながらもべたべたしそうとイメージが頭に浮かんだ。ともあれ、しのぶは油を頭につけるのは嫌だった。
「あぁ、猫がついてくるのが嫌やっていうのと一緒やな」
猫!?
ぶっこちゃんの唐突なセリフに思わず振り返り、ぶっこちゃんの顔を見たが、なるほどと納得している様子である。
「……ちょっと、ちゃうかなぁ」
しのぶは返事したが、ぶっこちゃんは聞かずにそのままキッチンに向かった。
猫。
そういえば、以前ぶっこちゃんが部屋に猫が居ると言っていたなと思い出した。
「布団の向こうからこっち見てるねん」
確かそう言ってしのぶに助けを求めてきたので部屋まで見に行ったが当然猫などいない。どうやら、ぶっこちゃんの妄想なのだ。だが、ここで不可解なのは、ぶっこちゃんは猫が嫌いだということである。昔から
「動物は嫌い。猫は特に嫌い」
と言っていた。何度か聞いたことがあるセリフなので、本当に嫌いなんだろう。それが何故かということまで聞いたら
「なんでてや」
という返事が返ってきた。つまり、生理的に受け付けない感じなのだろうか。若しくは、言いたくもない嫌な出来事があったのだろうか。とにかく猫が嫌いらしいのだ。しのぶが髪に油をつけるのが嫌いなほどに。
だとすれば、何故嫌いな猫を妄想で見たりするのだろうか、という疑問が湧いてくる。これまでの妄想にはぶっこちゃんが会いたいと思う人が登場していたように思っている。親にせよ妹にせよ近所の人にせよ先に他界して会えなくなったが会いたい、というぶっこちゃんの思いが妄想で会わせていると解釈していた。架空の子どもたちにしても、ぶっこちゃんが子どもたちと関わりたいと望むから現れるのだと。
だとしたら、猫はどうなるんだろうか。嫌いと言っているが本当は好きなのだろうか。いや、ぶっこちゃんの表情から、そんなことはないだろう。では何のために現れるんだろう。
そう言えば昔しのぶの亡き父、清一が猫を飼っていたことがあると言っていたなと思い出す。そのことと関係あるのだろうか。
また一つ、南野家の謎が浮上した。
髪の毛を束ねて顔を洗ってキッチンに入ると、壁に貼りまくってある幼子の写真にぶっこちゃんが挨拶していた。
「おはよう、誰ちゃんやったかなー、ミーコちゃんやな、どの子がミーコちゃんやな、オールミーコちゃんやな」
しのぶの頭は猫からミーコちゃんに移行する。誰やろう、ミーコちゃんて。
「ぶっこちゃん、英語が出たな、オールって」
「つい出てまうねん」
ドヤ顔のぶっこちゃん。
少し寒さがましになってきた、穏やかな朝の風景である。