第56話:月(最終回)
こんなことじゃいけない。
頑張らなくっちゃ。
もっと、頑張らなくっちゃ。
そうやって思うのは、頑張っていない自分がいるから。何をどうすれば自分が納得するのか、皆目見当がつかない。
毎日少しでも前進していたい。
自分が納得する自分でいたい。
何年も、何十年も前から、ずっと変わらない自分が自分を責める。ということは、恐らくこの先もずっと。そうして私はただ年齢を重ねるんだ。
ぶっこちゃんが死んで、葬儀も済んで荼毘に付した後にしのぶは自宅である新居に戻った。片付けや法要や、その他の書類整理なんかがあるために度々ぶっこちゃんの家に行かねばならないわけだが、早々に帰宅したのは、幸太が待っているという理由もあるが、それ以上にしのぶは実家に留まることに苦痛を感じていたのだ。
本当ならばしのぶだって、ぶっこちゃんと過ごした家で思い出に浸っていたかった。壁や、天井や、畳に染み付いたぶっこちゃんの匂いを嗅いでいたかった。
逃げたくなる。
何からかわからないけど
誰にも責められない国へ。
誰とも比べなくていい国へ。
「お仕事もしてはれへんからねぇ、みられたんやねぇ」
「旦那さんがよう稼がはるらしいからね、ええわねぇ」
しのぶは愛想笑いしながら声が止むのを待った。声は、ひとつ止んでもまた次の声がやってきた。
いや、その声が悪いのではなく、恐らくはしのぶ自身が疲れていたのだろう。しのぶの心が疲れてしまっていたので、どんな言葉も負担に感じてしまったのかもしれない。
誰かに優しくされたいし、誰かにかまってもらいたい。そんな自分の欲求ばかりが頭をもたげた。
自分は他者のために何かをできない。ぶっこちゃんにも、何もできなかった。
何だか嫌な物質がしのぶの脳内を巡らせている。
そんな時、空を見た。
夜になると門扉に出て、そうするのが癖になっていた。
何か、孤独感を解消するべく周囲を見渡し、そのついでに顎を上げる。
半分の月が、きれいに輝いていた。
とても、とても、きれいな月が。
月を見上げるとき、しのぶは想起する。
ぶっこちゃん。
彼女はよく、月を見た。
「きれいなお月さん出てはる」とか言った。
たわいもない会話で終わるのだけど。それは大抵しのぶを見送る際の恒例行事だった。名残惜しく、見送ってくれる。そんなときしのぶは申し訳なさにさいなまれる。それと同時に、この瞬間がいつか思い出になるのだろうと思った。
数年後、弱ったぶっこちゃんは月を見るために外に出ることが困難になってしまったから、ぶっこちゃんと見た月はしのぶの宝物となる。
思い出が、記憶が、切なさと共に希少価値をつけた。
今日しのぶは、月を見てぶっこちゃんを思い出し、涙する。
そして心に思う。
笑顔でいよう。