第十話:アイス
ぶっこちゃんは毎朝、だいたい九時頃にキッチンに現れる。ぶっこちゃんの部屋は家のいちばん奥の北向きの座敷で、昔は皆の寝室であったため今でも「寝間」と呼んでいる。その寝間十畳の和室に今は毛足の短い若草色のカーペットを敷いてリクライニング機能の付いたフランスベッドが置いてある。リクライニングを使用することはまずない。
ぶっこちゃんの一人部屋であるが、時々誰かと会っているらしい。裏の屋敷の先代の奥様がおしろいはたいているような影が窓に映るだとか、見知らぬ子どもたちがちょくちょく来てはいたずらをして帰っていくだとか、つまりは、ぶっこちゃんの年にもなれば、この世に存在しない人に会える能力が備わるようで、若しくはぶっこちゃんが特別にそうした能力を持ち合わせたのかもしれないが、お陰様で最近は寂しいと言わなくなった。
時間はかかるが一人で着替えもできるし、トイレも今のところ大きな失敗はないようだ。しのぶがこっそりと、それなり用の下着を買って枕元に置いてあるせいかもしれないが。
キッチンに姿を見せるのは九時頃ではあるが実際に起きているのはもっと早いようで、ごそごそと物音は聞こえている。夜中にトイレに行くこともあり、ついでに家の中を散歩することもある。そんな夢遊状態も記憶するのかしないのか、朝九時のぶっこちゃんは概ねぼやっとした顔で、壁つたいに手すりの掃除よろしくよく動く。
よく動くのは、暖かくなってきたせいもあるだろう。そう思えばいかにも動物らしい。
ある日の日中、キッチンのいつもの自分の席に「よっこらしょ」と言って座るぶっこちゃん。昼食時だが、あまりおなかも空かないらしい。しのぶも同様に食べる気がしなかったので
「アイス食べよっか」
と誘ってみたところ
「食べよか」
と乗り気のぶっこちゃん。
冷凍庫を開けると、棒の付いたバニラアイスの箱があった。中から二本取り出して、内ひとつの袋を開封してぶっこちゃんに手渡す。
それを掴むなり口を大きく開けて放り込む。
勢い良く食べたせいか、冷たさに驚いて目を丸くしてアイスを口から出すぶっこちゃん。
何をしていてもぶっこちゃん観察は面白い。さぁ何を言い出すかとしのぶはわくわくしながら待っていた。
ぶっこちゃんは、ぶぅーと息を整えてから言う。
「昔ほど、これに耐える力がなくなったわ。昔はほおばって食べてたけどな、今は置いておこうと思う」
どうやら、器の催促であるらしい。しのぶはくすりと笑って皿を前に置いてやった。