第41話:行動論
少しずつ温かくなり始めている三月の頃。お風呂に入れるのも、入れられるのも、互いに慣れたもので、手際良く、心地良く、後味も良い満足感を、最近のしのぶは感じていた。
ぶっこちゃんの場合は体が動くので介助しやすい方だろう。よろついたり起立姿勢に不安はあるものの、シャツにはうまいこと手を通す。
毎日、彼女と話す中、特に目立ちだしたのが「空」との会話である。
二人でキッチンに居るときなど、しのぶは食事の支度をしていてテレビもついていない中、ぶっこちゃんがふいに「え、なんてや?」などと発言する。
来客の声も、電話の呼び出しも聞こえないぶっこちゃんが、無音時に突如発言するのである。
と、これはしのぶの解釈である。
恐らくぶっこちゃんにとっては何かしらの声ないし音が聞こえたのかもしれない。
言わずもがな、ぶっこちゃんは認知症である。病院で検査を受けたわけではないが、日常の言動から、およそ確実であろうと考えている。
ここで、しのぶの方が何かしらの病気であると疑いを持たれたならば話がややこしくなるので、しのぶは健常で正常であると仮定して考えたい。
つまり、認知症であるぶっこちゃんの「え、なんてや?」発言を、どう考えるかということなのだが、何も無いところに「え、なんてや?」発言が起こり、その後当たり前だが何の反応も返ってこない。がしかし、ぶっこちゃんの「え、なんてや?」発言行動は、言葉の多少の変化はあるものの、日に一度は発生するのである。
つまり、ぶっこちゃんの発言には、何かしらの返答若しくは反応があるからこそ強化されて毎日起こっていると言えるのだ。
さて前述の文章はあくまでもしのぶの知る限りである。これを、ぶっこちゃん視点で想像して考え直してみる。
何か、声が聞こえたので「え、なんてや?」と聞き直すと、返答があった。と考えると成り立つのではないか。
実際しのぶが確認できる現象は「え、なんてや?」のみである。が、異なる次元でぶっこちゃんは誰かとコミュニケーションしていたことになる。
しのぶは日々のぶっこちゃんの行動に対して、ぶっこちゃんの心に寄り添いながら無理なくより良い日常を送れるように介助や支援をしたいと考えている。
対人援助の技法のひとつに「行動療法」というものがある。ある行動の直後に本人の好きなものを提示したらその行動は増えるといった行動の原理を用いて行動を正しく導く支援法らしい、と何冊か読んだ本とネット情報でしのぶは学んでいた。
認知症に、行動療法が通用するのだろうか?行動療法の元になる行動分析は、あらゆる人と動物の行動について説明可能であるらしい。がしかし、そこには大なり小なり学習理論が付きまとう。認知症の人も、もちろん学習はする。人は、死ぬまで学習する。がしかし、年齢と共に、忘却の速度が増す。認知症にいたっては、一足飛びに増す。そして遂に、学習速度を遙かに上回る速度で忘却する。だとしたら、言ったことを理解するのに十分かかり、それを忘れるのに一分もかからないのである。
もちろん忍耐強くルーチンにこぎつけることも不可能ではないが、費用対効果ならぬ忍耐対効果を考慮した場合そこまでしなくとも、別の方法でなんとかしちゃえる方が遙かに方便なようにも思う。
と、そこまで考えたならば、それは認知症でなくとも同じことかもしれない。対象者が、それに適するか否かの判断も、援助者には必要の知識なんだろうな。
しのぶは分厚い本をどさっとカーペットに置いて、枕にした。
行動療法はなかなか好きだが、必ずしもそれしかないわけではないなと思った。逃げ道を、作ってほしい。専門家になれない者の言い訳かもしれないが。
ふぅ、とため息をついてから、気を取り直してパソコンを立ち上げて「認知症・支援法」とググってみて「やっぱりやんぴ」とつぶやいて電源を落とす。
気付くと扉のところに突っ立ってこちらを見ているぶっこちゃんが居た。
何だかちょっと、支援してやろうなんて考えたことを申し訳なく思い、後ろめたいとしのぶは感じて何か声をかけようとしたら、ぶっこちゃんが大きなあくびをした。
「あーーーぁあ、昨日からあくびが続いてるんかいなー」
しのぶは思わず吹き出しそうになる。
「それ、昨日のあくびなん?」
二人して笑う。
ぶっこちゃんではなく、考えすぎの虫の自分の方が支援が必要かもと思ってみたりする。