まわたのきもち 第8号
「保護者の参画」
統計的に見てみると、2020年の国勢調査と厚生労働白書では、核家族もしくはひとり親の世帯は2395万世帯、そのうち両親ないしひとり親が仕事をもっている家庭が1745万世帯だった。72%以上という圧倒的大多数の家庭が、ひと昔前の行政用語で言うところの、「保育に欠ける」家庭だということになる。
その働く親を支える社会的仕組みも、徐々に整備されてきた。その整備の歩みは、まさに牛歩の如くゆっくりとしているが、それでも少しずつ前には進んでいる。しかし僕が課題だと思うことは、その公的な社会的整備の根底を支える精神が、「保護者の参画」を前提としていることだ。
「保護者の参画」の代表格は、各学校にある“PTA”の存在だろう。語弊を恐れず過激なことをいうと、僕は、“PTA不要論者”である。戦後すぐの米国教育使節団にそのルーツを持つ日本のPTAという組織は、役員の成り手不足をはじめとして、任意性が前提のその意義の理解が広がらず、組織を維持することだけでも多大な労力を使うことになり、もうすでに時代遅れである。PTAについての僕の考えを書いてしまうと、それこそこのエッセイの1号分は優に埋まってしまうので、詳細は後日に譲るとして、今日は僕が身を置いている子どもたちの札幌の放課後のことに絞って考えたい。
特に札幌の行政が進める放課後の施策は、大雑把に2つに分類される。ひとつは行政が設置している児童館やミニ児童会館(いずれも運営は民間へ委託)と、行政が運営費の一部を助成している民間学童保育だ。児童館やミニ児童会館は、広く知られている通り原則無料なので、地域によっては人数が増え続けパンク寸前にある。それでも無料なので、とにかく子どもの身体的な安心・安全が確保できればそれでいい、と考える家庭のニーズには合致するだろう。
一方で民間学童保育については、札幌市が助成金を出す場合、いくつか条件がつけられている。そのうちのひとつが、両親が「共働き」あるいはひとり親家庭で、放課後に自宅での育児が困難である家庭の利用が前提ということだ。しかし同時に、名称は別にして、保護者が「育成委員会」を作り、助成申請や報告、経理や労務などの事務にはじまり、バザーなどを通した資金集め、果ては毎週のゴミ捨てや除雪の当番など、保護者が参画していくことも求められてもいて、加えてそれら活動のため、「民主的運営」の名の下に、数多くの会議にも親の時間がとられている。そういう活動が好きな親なら楽しいだろうが、仕事を維持するために利用している親はどうか。利用前提が仕事をしていることになっていながら、その運営には、どの親も平等に関わり労力的・時間的負担を強いられるというのは、この制度の前提は明らかに「矛盾」の状態にある。
学童保育型学習塾イデアの開設は、この矛盾を何とかしたいという発想を土台として始まった。保護者の労力的負担は極限まで減らしていても、やはり保護者とのコミュニケーションは新しい発見に溢れていて、楽しい時間だ。せめてお迎えの際、ほんの少しの時間コーヒーでも飲みながら(インスタントだが…)、色々なお話しを聞かせて頂ければありがたいと思う。