まわたのきもち 第20号
「パレスチナ問題に思う」
ウクライナとロシアは戦争状態が続き、今度は、イスラエルで、イスラエルとハマスが戦争状態に入った。また、たくさんの人が犠牲になる。人類とは、なぜこんなにも愚かなのか、とも思う。
しかし一方で、イスラエルにはなぜ「パレスチナ」という自治区が存在し、海と壁に囲まれた日本の種子島ほどの大きさ(幅5km×長さ50kmほど)の「ガザ」という地区が存在しているのか、ということに思いを致す人がどれだけいるだろうか。僕はここで、イスラエルのこと、パレスチナ(ハマスも含めて)のこと、もっと言うと、イスラム教のこと、ユダヤ教のことを論じるつもりはない。今の時代、YouTubeでこれらのキーワードを入れれば、それこそ無数に解説動画が出てくる。それらの多くは、わかりやすく、そしてある程度は信頼に値する情報だし、僕のような国際情勢の素人が語ることができるほど、簡単な問題でもない。
英会話を担当しているデイジーが、今月末にスウェーデンへと移住する。慶事による移住で、それ自体は喜ばしいことだし、今後もオンラインを活用して、現地のネイティブとの交流を含めて英会話は継続していくので、「お別れ」というものでは無いのだが、奇しくも今年7月に彼女がヨーロッパにひと月ほど滞在した際、オンラインで子どもたちと繋いだ場所のひとつに、イスラエルがあった。イデアの英会話は、ただ英語力を身につければよいという発想では行っておらず、言語も文化のひとつであると位置付けている。ゆえにその時は、現地の自然や、建築物や、食べ物や、社会情勢などを現地にいるデイジーに紹介してもらったのだが、イスラエルの「Hefer valley regional council」というとても美しい海岸から、デイジーの友達「ターニア」にも参加してもらい、子どもたちは束の間の交流を楽しんだ。しかし今は、そのイスラエルが、戦禍に見舞われている。
僕は、このエッセイで、平和の尊さを説くことも、戦争反対の意見を声高に主張することもしない。子どもたちを預かる学童保育型の学習塾の塾長としてこの文章を書いている以上、それは相応しく無いと思えるからだ。しかし一方で、子どもたちには、戦争と交渉、平和と混乱、自分と他者の生命のこと、そして、自分と他者の人生のことを、自分なりの思考で考えられ、自分の言葉で伝えることができる子どもになって欲しいとは思っている。「異文化理解」とか、「多文化共生」とか、そんな言葉が溢れる時代になったが、特定の地域の食文化や、言葉や、衣服や、歌や踊りや、歴史や、宗教などを、大人の偏見まじりに子どもに押し付けるようにして理解させた「つもり」になることを、僕は絶対に肯定しない。その代わりに、「今、イスラエルはこういう状況になっている。あなたはどう思う?」の問いをぶつけ、「私はこう思う」と、自分の言葉で語ってくれる子どもになって欲しいと思う。
1足す1は2である、あるいは、「はな」は「花」と書く、という決まりきって動かない事実は、反復して覚えなければならない。僕は、これが学力の基礎基本であると思っている。しかし、「なぜ1と1を足すのか」、「なぜ『はな』は『花』と書くのか」という「なぜ」の部分は、自分の言葉で考え、語ることができるのだ。この「なぜ」と思える余地に、本当の学力が隠れていると思っている。
パレスチナ問題とは何か。あるいは、イスラエルにパレスチナ自治区があることも、第一次世界大戦の時のイギリスの「三枚舌外交」も、第二次世界大戦の時のナチス・ドイツによるホロコーストも、第一次から第四次までの中東戦争も、もっと言えば、ヨーロッパの多神教信仰から唯一絶対神信仰への変遷も、客観的な事実として教えていこう。それは、「1足す1」と同じだからだ。しかし、本当に大切で、かつ必要なのは、なぜその事実が生まれ、その事実をどう受け止め、自分なりに何を考え、これから自分ならどうするか、ということに思いを致すことだ。そんな力が、すぐに身に付くわけもない。だからこそ、日々、子どもたちに反復して基礎・基本を身につけてもらいながらも、議論する力を大切にしている。
「ターニアが心配です」と、先日開いたささやかな送別会で、デイジーは言った。パレスチナ問題で、直接的に僕にできることなんてありやしない。しかし、それでも、僕は僕なりにできることを探していこうと思う。