まわたのきもち 第12号
「当たり前」
政府から、「こども未来戦略方針」が発表された。
僕はその要旨しか読んでいないが、完璧な政策というものは存在せず、だから国民全員が納得できる政策というのも存在しない。しかし、2030年代に入るまでに少子化の打開策を見つけ、具体的な施策に打って出ないと、将来にわたって急速に進む少子高齢化を反転できないという統計は、概ね納得できる。だからこそ、「安心して子を産める社会」を目指す施策になっていることも理解できる。
大雑把に言えば、「日本は子を産み育てやすい社会です。だから、安心して子を産んでください」という社会を作ろうとするという為政者の意思表示は、方法論に賛否があってとしてもすべきことなのだ。
ただその内容は、大半が「当たり前のことを当たり前にしましょうよ。」と言っているように見えてしまった。逆に言えば、「当たり前のことができていないから、当たり前を作っていくのが必要なのです。」と言い換えてもいるのだろう。
今回、政府から示されたこの戦略の大半は、「当たり前」の環境づくりだった。3つの基本理念、「若い世代の所得を増やす」「社会全体の構造・意識を変える」「すべてのこども、子育て世帯を切れ目なく支援する」の全てが、日本という国が抱えている社会構造を、どのように変えていくか、という環境づくりの内容だ。僕は、政府が環境を作っていくことに振り切った戦略を考えるのはある種当たり前だし、逆に、政府ができることというのは、社会の構造の中での環境づくり以外にはないと思っている。
しかし一方で、政府は社会構造を変える環境づくりはできても、実際に子どもが育つ環境の安心・安全まではつくれない。それは、子どもに関わる、あるいは子育て世帯に関わる我々大人の仕事である。今年2月、非常にショッキングな出来事が相模原市であった。学童保育所内での虐待事案である。僕は、札幌市内で活動するNPO団体でもボランティアで学習支援をしていて、過去何度か、その活動の最中に、利用している子どもからの相談を受けて、児童相談所に一時保護の要請をしたことがある。月に2度、何ヶ月も顔を合わせていても、当事者の子どもたちが勇気を持って告白してくれるまでは気づかなかった。その点、僕の力量・能力不足は否めない。だが一方で、その子たちの親は巧妙だった。虐待の最中にある状況を、「当たり前」なこととして子に擦り込んでいく。
かつて、アメリカの高名な文化人類学者ルース・ベネディクトが名著『菊と刀』で記した通り、日本の文化は、「恥の文化」である。「恥」とは何か。大雑把に言えば、「世間から笑われること」なのだ。だから大人たちは、世間から笑われないことが最優先で、「虐待をする側」の大人は、世間にはわからないように、巧妙に、虐待環境にあることを歪んだ「当たり前」として子に擦り込んでいくのだ。
「当たり前」は難しい。政府は、今後何億円もかけて、子を産み育てやすい「当たり前」の環境を作っていくとした。一方で、「歪んだ当たり前」を擦り込まれ虐待に苦しむ子も、社会には確実に存在しているのだ。だから、学ぶことを通して自らの価値観を持ち、「その当たり前は歪んでいる」と声を上げられる子どもたちが増えていけばいいなぁ。と思う。
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