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【読書】紀行文なのに小説みたい。友人、故郷、アイデンティティ。「ラダックの星」(中村安希著)

「ラダックの星」(中村安希著/潮出版社)を読み終えた。ジャンルで言えば紀行文、ノンフィクションだけど、読後感は小説みたいだ。話の筋はシンプル。

 亡くなった古い友人への思いを胸に、北インドに位置する標高3500メートルの高地ラダックへ星を見る旅に出る

 これだけなら「ああ、その手の話ね」と思うかもしれない。

 全然違った。言語とアイデンティティ、幼いころからの友人の死、故郷への複雑な思い、海外で「外国人」として生きることの現実、「英語ができる」立場で働くということ。幾重にも色々なエピソードが、それこそ星のように出ては消えていく。時々、読むのが辛い。特に最後は。それでも、筆者と一緒にゼーゼー息を切らして雪山をノロノロと登るような感覚で読み進めると、「うわっ」と感じる景色が見える。

1、故郷、古い友人、いま

 筆者の幼い頃からの友人ミズキを中心に、故郷の友人達との人間関係が描かれる。

 「小さい頃からの地元の友達」と言うと、学園祭だとか恋話とか部活とか、キラキラした「私たちの思い出」になりそうだけど、そうした話題はあまりない。それよりも日常生活の話題が多い。

 子どもの頃の世界は大人が「色々あったけどワクワクして楽しかったな」と片付けるほど簡単じゃない。まわりの大人を色んな形で試したり、友達同士で空気を読み合ったり。将来への不安や焦りや、住んでいる場所の閉塞感に苛立ったり。知識や経験が少ない分、感情がむき出しで、ヒリヒリしていた。痛みを鮮やかに思い出す。

 紀行文なので、当然、ラダックでの25日間の旅で出会った人や現地の文化、情景を中心に話が進むが、私は、故郷や古い友人をめぐる関係性の話の方が、胸に迫った。

2、「外国人」

 「外国人」をめぐるエピソードが色々出てくる。筆者自身がアメリカで体験した差別、日本に帰国してからの理不尽な扱い、帰国子女のミズキの葛藤。

 その中で私は、小学生三年のエピソードが印象的だった。

 フィリピン人のお母さんが保護者面談に来るから、英語で対応してほしい。

 同級生の女の子が先生に頼む。

先生は「無理に決まってるんだろ」「ここは日本なんだから」と断り、それでも頼む女の子にキレて、無視する。

 何が嫌って、「悪い先生」じゃなくて、優しくて余裕のあって、子どもからも信頼されている中堅の男性教師が言うところだ。

 こういう問題って、今も、形を変えて、ある。英語だけじゃない。例えば親が「子どもの発達の遅れや特性に応じてほしい」とか言ったら、どうだろう?

 最終的に無理でも、検討すらしようとしない、異質なものを排除する。「特別扱いできない」。怒鳴ったりキレて無視。

3、追い続けるということ

 筆者は最高の星空を目指して荒凉とした大地や山々を歩く。結果、満足した星は見られなかった。

「星を追う」ということは、ニマリンで逃した完璧な星空への執着を捨てるということではない。いろいろあったマルカでの旅を、ただ前向きに結論づけるということでもない。「星を追う」ということは、どんな状況であっても、最後まで、星を追い続ける、ということではないのかと。

 そして、最後、予定にはなかった登山に挑む。

「色々あったけど、それも含めていい旅だった!」にしないところが、すごい。それは旅だけの話ではなく、亡くなったミズキとの関係についても。

 ハッキリは書いてないがミズキは自殺したように読める。友人の自殺を、単に「救えなかったのかな」で終わらせていない。追い続ける執念こそが、弔いそのものみたいだ。

4、まとめ

 この本は読む人によって、見える景色は全く違うと思う。紀行文、アイデンティティをめぐる葛藤、古い友人たちとの人間関係の機微。読んで疲れるけど、べったりした疲れじゃなく、たくさん運動した後みたいな、清々しい疲れだった。

 

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