31.夫が泣いた日
プロローグから続いています。
ほんの少しずつ
薄皮を一枚一枚剥ぐように私は自分を前に向かせる。
向かせたくてもすぐ戻り
それでも這うように自分を前に向かせる。
自分の命を友人に預けた私は、
何百層にも重なる薄皮の向こうの光を求めるようだったが、
それでも前へ…
まだまだ見えない遠い向こうの光を追い続けていた。
自分を傷つけることは無くなった。
保育園の送り迎えも何とか自分でできるようになった。
それでも、
どうしたらいいのか変わらず分からないままでもあった。
その後も自暴自棄になることが多々あり、
今度は、その度に家出を繰り返すようになる。
家にいるのが辛かったのだ。
光を求め始めた途端、
こんな私を今も捨てずに居る家族に対する申し訳なさから
いっそうのこと捨てて欲しいとさえ思うことが多くなった。
家族が寝静まる頃、
荷物をまとめ娘の着替えまでバッグに詰め込み、
娘を連れてそのまま家を出る。
なぜか娘はいつも連れて出て行っていた。
その様子に気付いても、夫は止めはしない。
やっぱり、こんな私に愛想を尽かしたんだ。
それを確かめるように、夜道を娘を引き連れ歩き回る。
交番に行くこともあった。
奥さん、ご主人が心配してるから帰りなさい。
そんな風に何も言わない私に声を掛けてくれる警察官。
それでも家に帰れない。
どうせ愛想を尽かされているんだ。
その証拠に、追いかけても来ないじゃないか。
そんな思いが頭を駆け巡る。
そして、歩いた後には
決まってビジネスホテルにチェックインし一晩過ごしていた。
偽名を使い娘と共にシングルの部屋に通されるが、
それが2回、3回となると、
ホテルの人も事情を察してくれていたようだった。
朝になると、毎回主人が迎えに来る。
何事も無かったかのように大きなバッグを持ち
家まで送り届けてくれる。
そして、
また何事も無かったかのように日常が始まる。
こんなことを繰り返すようになっていた。
なぜ何も言わないの?
こんな私、こんな迷惑な私…
一人で生きていきます。
どうか私を捨ててください。
どうか私を放り出してください。
自分を傷つけはしないものの、そんな気持ちが行ったり来たり。
ある晩私は、
自分の惨めさや情けなさから夫を責めた。
私がこうなったのはあなたのせいだ!
と。
理不尽極まりない。
でも、そうでも言わないと
一向に私を捨ててくれる気配がないのだ。
それでも夫は何も言わない。
早く寝ろ。
その程度しか言葉を発しない…ように感じてた。
私は自分が情けなかった。
命があってもこんな状態。
こんな自分。
どうせ元には戻れない。
そんな情けなさや惨めさが怒りとなって、
夫を責め立てる。
そして祈るように私を捨ててくれと心の中で叫ぶのだ。
そんな時だった。
どうして分かってくれないんだ!!!
夫が突然泣きながら叫んだ。
何度も何度もキッチンのシンクを叩きながら
言葉数の少ない夫が泣きながら叫んでいた。
後にも先にも、
夫が泣いた姿はこの一度しか見たことがない。
どうして分かってくれないんだ!
俺はどんな時でも麻貴を信じてきてるのに、
なぜそれがお前には伝わらないんだ!
なぜそれがお前には分からないんだ!
私の何か…魂のようなものが目覚めた瞬間だった。
考えてみればこの2〜3年の間、
私は生きることが精一杯で
夫と会話らしい会話をしたことがなかった。
大量の薬で朦朧としている時も
私が泣き叫んでいた時期も、
きっと夫は私にいつも何かを訴え何かを伝えていたのだ。
反応が全く無い私と暮らしながらも、
日々淡々と娘の世話をし、
仕事をし、
毎日私が生きているのかを確認し…
私がちょっとでも体調が良ければ散歩に連れ出し、
食べたいものがあれば何でも買ってきてくれていた。
それでも、私には夫の声が届かなかった。
夫の姿が見えないでいた。
会話をした風景も会話をした記憶も、ほとんど記憶に無い。
ご飯食べろ。
風呂に入れ。
今日も早く寝ろ。
そんなことしか記憶に無い。
でも、きっと夫はずっと私に何かを伝えていたのかも知れない。
このとき初めて、
私がうつになってから夫の声が私の耳に届いた感覚がした。
私は放って置かれていたのではなかったんだ。
愛想を尽かれているわけでもなかったんだ。
むしろ何も反応のない私を何年にもわたり、
ただ側に居続け面倒を看て
一日一日を送らせてくれていたんだ。
私は泣いた。
夫の魂の叫びと夫の涙で私は泣いた。
その涙は
これまでのものとは違い温かなものに感じていた。
つづく