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2.幸せだった家族

プロローグから続いています。


小学校では優等生タイプだった。
私の誕生日が4月3日と学年の中でも早く、
体も頭一つ分大きい子どもだったから
なんでも先にお手本をやらされるタイプだった。
お姉さんタイプという感じだ。

その反面、友達の輪に入ることが苦手だった。
大人に囲まれて育ったからなのか、
友達がグループで遊んでいると
「私は大丈夫」というフリをするかのように
一人廊下で過ごすことも多かった。

好きではないのに読書が好きなフリもしていた。
仲間はずれにされていたわけではない。
むしろ、みんなに頼られていた方だと思う。
なのになぜか、友達の輪を見ても
「い~れ~て~」という一言が言えなかった。
そのまま何食わぬ顔で通り過ぎ、
真っ先に家に帰っては祖母と過ごしていた。

祖母は夕方になると決まって行く喫茶店がある。
家に祖母が居ないと、いつもの喫茶店に行き、
私はその片隅でジュースを飲んで過ごしていた。
それが私の日課。
そして、祖父が帰宅する頃に商店街に買い物へ行き、
夕食の支度。

祖母は料理が上手だった。
特に魚の煮付けが絶品だった。
支度の時には黙々とこなす。
私は一人テレビを観て過ごしていた。


休みの日には、
家族で毎週のように出掛けていた。
いつもの決まったコース。
デパートの屋上へ行き私が遊び、
その後はライオンというビアホールに行くのだ。
祖父母と母はビールを飲み、
私はエビフライやハンバーグを食べる。
この時ばかりはなぜかみんな仲が良い。

そして、夜にはハワイアンバンドの入るラウンジへ。
子どもは私だけ。
幼い頃から行っていたから、
何ら不思議に思ったこともない。
バンドの人も私のことを覚えてくれ
私に向けて演奏してくれることもあり、
時にはステージ前で踊っては、大人たちを喜ばせていた。
歌舞伎や寄席、宝塚歌劇団を観に行くこともあった。
そんな大人たちが好きな音楽や舞台を
一緒になって渡り歩いていたような子供時代。

大人の世界。

ライトが煌びやかな世界。

当時意識はしていなかったが、
そんな世界に憧れていったのは
ごく自然なことだったと思う。


傍から見たら六畳二間の借家暮らしの家族だ。
決して裕福には見えない家族。
狭い路地の一角にあり、 
壁も薄く、機嫌も様子も怒号や話し声で筒抜けの家族。
不満が無かったわけではないが、
傍からは分からないような煌びやかなところも
持ち合わせた家族。

家に帰ればいつものウクレレ。
ウクレレを弾かないときにはレコードでジャズを聴く。
時には祖母が三味線や鼓を奏でることもあった。
色々なところがチグハグだったが、
私はこのチグハグな四人暮らしが幸せだと感じていた。


そんなある日、いつにも増して激しい喧嘩が始まった。
祖父母の喧嘩ではなく、そこには母も混じっていた。
母が泣きながら何か訴えていた。
私はいつものように煎餅布団をかぶり…
ただ、いつにも増して心臓の音が聞こえそうな自分を
布団に押し付けていた。

いつもと違って耳を澄ませる。
いつもと違う。
いつもと何かが違う。

すると、母が再婚することを決めたという
言葉が聞こえてきた。
小学校4年生。
意味は分かる。
布団の中で鳥肌が立ったのを今でも憶えている。




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心理カウンセラー小園麻貴(こぞのまき)
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