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「賢さ」と「知恵」の間に - ORSC(組織と関係性のためのシステムコーチング®︎の学びを振り返って

この投稿はシステムコーチング®︎を学ぶ仲間がつくったアドベントカレンダーに参加するものです。


「関係性」は「物語」の棲家

ごめんね、Yちゃん

「関係性」なるものに関心を持ち活動をする私が、「関係性にあるもの」をみることに関心を持った最初の頃の記憶に、Yちゃんとの出来事があるかもしれない。そんなことを、クリスマスの日にふと思い出しました。

子どもの頃、家にたくさんの人たちが遊びに来ていたある日のこと。子どもたちは一人ひとつずつ、紙袋に入ったお菓子をもらっていました。名前を書いておけばよかったのだけれど、それをしないでいたら案の定、誰のが誰のかってことがすっかりわからなくなって、気づいたら私は、あんなに大切にしていたはずのお菓子袋を無くしてしまったのです。みんなが帰って、あんなに散らかった部屋に誰もいなくなった時、私はようやく気づいたのでした。「私のお菓子袋がない」と…。

散々探しまくった挙句、どこにもそれを見つけることができなかった私が次に始めたのは「犯人探し」でした。「きっと誰かが私の分まで持っていってしまったに違いない。そういうことをしそうな人…そうだ、きっとYちゃんだ!」。そしてYちゃんのことを泥棒だとレッテル貼りをして、「自分はやっていない」というYちゃんに「嘘つき」とか「Yちゃんはずるい」という気持ちを強くしていったのです。

そう。後日、そのお菓子袋が部屋の片隅でひょこんと見つかるまでの間は。

「うわあ、Yちゃんに悪いことしちゃったな。Yちゃんを泥棒とか嘘つきとかいっちゃったのに」。幼い私はとても恥ずかしくなりました。あまりに恥ずかしくて、それから怒られることが怖くて「私が間違えていた」とも言えず、できたことといえば、そんな出来事がなかったかのように、その話からそーっと身をひくだけでした。誰も私の失態に気づかないでいてくれたらいいなあ…と思いながら。

大人になって、Yちゃんと私はときどき言葉を交わす友達ではあるけれど、あの時のことを思うと、今でもこうして、バツの悪い気持ちになります。

「『私の真実』が真実であってくれますように」というマントラ

さて、この体験は、関係性の中で起こる問題のいくつかの側面を伝えてくれているように思います。

  • 自分の期待と違う出来事が起こると、ショックで動揺してしまうこと

  • ショックのあまり「相手に確認してみる」という選択肢すら、頭から消えてしまっていたこと

  • 実際に何が起きたのかを確認することもなく、経験則をもとに「悪そうな人」を「悪者」にすること

  • 「自分が正しい」ことを証明するために、仲間探しを始めたくなること(きっと彼がやったんだよ。そう思うよね?きっとそうだよね?!)

  • 「悪者」と決めた相手の言うことが全部「言い訳」に聞こえてしまうこと

  • etc…

そして、「正しさ」で身を証明しようとしていた自分が「間違っていた」と気づいた時の、あの情けなさよ…。自分の非を認めることも恥ずかしいし、そして同時に、責めてしまった相手にも申し訳ない。まさに「途方にくれて」しまうのです。

「わからなさ」が好奇心に火を灯す時

このような「思い込み」(自分独自のストーリーを「真実」と思いたくなること)に成り立つ関係、世の中には、実はたくさん存在するのではないかと感じています。

「あの人の考えは古いから、話しても無駄だ」
「どうせ私の意見なんて聞いてもらえない」
「きっとあの人はこう言うに違いない」 etc….

「思い入れ」が高ければ高いほど、「思い込み」に入りやすいし、それが真実に思えてくる。その「前提」が自分の中で揺るぎないものになり、他者の側からその「現実」がどう見えるのかということへの「想像力」が失われていく。そのまま言葉を交わすことなくいるうちに、「現実への理解」すら共有するが難しくなる。

そのようにして「手のつけられなくなっている」関係性の課題を見るにつけて、こんな関心も湧いてきます。

「人って賢いはずなのに、拗れを拗らせたままにしておくのには、どんな理由があるのかな?」

「拗らせる」= つまり、感情的もつれのある状態をそのままにしておくことにも、何かとても大切な理由がありそうだ。そして「拗れを解く」=感情的もつれを紐解く、その先にある風景を共に見ることができたならば、それはお互いの人生にとって、とてもワクワクする体験な気がする。

そう。こういう、ワクワク感のようなものが、私の原点にあるのかもしれない……。自分でもよくわからないけれど。

「関係性の課題をなんとかしたいから」というよりかは、「関係性の中にある不思議さを興味深く思うから」。そう言葉にしてみると、軽やかさが身に宿るので、「うん、確かにそうかも!」っていう気がしています。

創造の余白 : 気づきと発見のスペース

「自然」としての私たちと出会う

私が「人って賢いはず」と書いた背景には、「人、すなはちいのち」という捉え方があります。それは昔、とある習い事をしていた時に、先生が、お父様がとても大切に保管されていたナショナルジオグラフィック誌掲載の受精卵の写真を見せてくれたことに起因します。

たったひとつの細胞が、まるで意志を持つかのように、生命体として発展していく。自分でこうしたいと伝えたつもりもないのに、生命が自ずと、いつのまにか自分といういきものをつくっていく。それってすごいことなのではないか。私が「生きよう」と思う以前に、私を生かし、生きているいのちがある。なんと不思議なことなのだろう。

「畏敬の念」という言葉が、そこに立つのです。

「いのち」とはすなわち「自然」。自ずから然るその様に関心を向けることが「いのちに寄り添う」こと。人が、その賢さ(生命の持つ知恵)に気づきそれに立ち会う時、そこに何か不思議なものが立ち上がってくるというのも無理ない(むしろ理にかなった)ことではないだろうか。

「知恵」とはいのちとの共同作業を通じて「ともに見出すこと」

そして、こんな風にも思うのです。

いのちが「知っていて」私たちが「気づいていない」ことの間に、学びと創造の余白があるのではないか。

関係性の中に起きていることに私は関心を持っているけれど、それは「コミュニケーション」という言葉ではじゅうぶんに捉えきれなくて、「捉え方」や「視点」という言葉でも十分にニュアンスを伝えることが難しい。そういう「いかんとも表現し難い」領域だなと感じています。

そして、この、いかんとも言葉にしたがい、共有に難しい領域について描こうとする芸術的試みとして、私が大切に感じているNVC(Nonviolent Communication)だとか、今年情熱を注ぎ学んできたORSC(Organization & Relationship Systems Coaching(オースク):組織と関係性のためのシステムコーチング)があると思うのです。

その軸にあるのは「気づきがたちあがる余白をデザインすること」。そんなものではないでしょうか。学び続ける私の、2023年12月における理解が紡いだ言葉を、ここに記録として置いておきます。

ORSCの基盤にはアーノルド・ミンデル博士の見出した「プロセスワーク」というものがありますが、私がORSCに感銘を受けたのは、プロセスワークによって整理された「見えないけれど確かにある」領域のことを「見える化され論理的に整理された状態となっていることを大切にする人たち」にとってもアクセスしやすいようにというケアによって紡いでいると感じる点です。「ツール」という形を与えることで「触れ・共有しやすいもの」として整理されていることによって、きっとこの領域の智恵を必要としている現場に届けやすいものになったのではないでしょうか。それでいて、実践コースにおいてしっかりと「ツールではどうにもならない世界」も体験させてくれること。この痺れるようなひりひりする体感よ…。それから「コンピテンシー」という、このワークを行う上での重要な基軸をしっかり示し、身につける機会をいただけたことは、本当に貴重な体験でした。この学びに費やしたすべての時間が、自分自身を知る機会でもあったと感じています。「仲間がいるから」「体験があるから」得られる気づき。そこに大いなる感謝を感じています。

関係性になんとかしたいから、ではなくて、「"いのちのおもしろさと出会いたがっているいのち"というのが私たちだと思うから」。そのわくわくする気持ちから、来年は輪をかけてたのしく、いろんな現場に飛び込んでいくね。

不思議さと、神秘さとともに

最後に:

ORSCはシステムコーチング、つまりコーチングという領域にありますが、コーチにとって最も重要な資質とは「生命への信頼と謙虚さ:未知なる可能性にこころを開き、出現するものの宿す智恵に耳を傾け、生命の働きを信じること」なのではないか。そんなことも、考えています。おもしろいよね、コーチング。この未知で神秘な領域に、惹かれてやみません。

すっかり長くなってしまいました。そして同時に尻切れトンボのような気もするけれど、今日のところは、ここで閉じておこうと思います。

この言葉を紡ぐきっかけをくれたORSCの仲間、かつたろうさん、ありがとう!仲間にささせられて歩んできたこの一年は、人生の宝となっています。

感謝を込めて・・・。

2023年12月25日
今井麻希子

(12/24に書くっていったのに25日になっちゃったにゃ。ごめんねっ!)