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金沢城、最大の建物だった二の丸御殿を求めて

金沢城内にあった金沢東照宮の建物2つを、初詣で見てきました。 

他にも、金沢城の遺構が市内にあるのでは?
ということで、今回は、金沢城、最大の建物、二ノ丸御殿の遺構を探しに行きます。

金沢城は江戸時代の建物が残っているの?

金沢城は何度も火事に遭っていて、ほとんどの建物が焼失しました。
でも、残っているものもいくつかあります。

城内に残る3つの江戸時代からの建物

石川門、三十間長屋、鶴丸倉庫(土蔵)は、江戸時代後期に建てられたものです。

石川門
三十間長屋
鶴丸倉庫

それぞれとても面白い建築ですが、それはまた別の機会に詳しく見ていきましょう。

二ノ丸御殿は?

そうです。
残念なことに、二ノ丸御殿も焼けてしまって金沢城内には何も残っていません。

さらに残念だと悔やまれるのは、明治まで残っていたのに、陸軍省の使用中、失火により明治14年に御殿が全焼してしまったことです。

金沢は戦災にもあっていないので、そこを切り抜けていれば現存していた可能性が高いと思います。
でも、歴史に「たられば」はありません。
気を取り直して、二ノ丸御殿跡へ。

二ノ丸御殿のあった場所

右手に見える建物は、平成13年に復元された菱櫓と五十間長屋です。
白い囲いの中で、今は二ノ丸御殿の発掘調査がされています。

白い囲いの間から見える調査現場

調査をしているということは、二ノ丸御殿を復元する前段階です。

1月4日の石川県知事の年頭記者会見によると、「二ノ丸御殿の復元整備に向け、2022年に実施設計にとりかかり、2年後に着工予定」です。

二ノ丸御殿、建物本当に何にもなかった〜、では終われません。
お城の外に、遺構はありました。

移築により、難を逃れた2つの建物

二ノ丸御殿の唐門と2つあった能舞台の1つは、1870年(明治3年)に、卯辰山招魂社の正門と社殿として移されていました。

卯辰山招魂社跡地にある記念碑

加賀藩も、日本で唯一の内戦といわれる戊辰戦争のうち北越戦争(新潟での戦い)に参加しています。
1868年(慶応4年)のお正月に、戊辰戦争は始まり、その4月に、新政府から情勢不利として加賀藩にも官軍動員がかかり、出兵することとなりました。

ちょっと待って、慶応って江戸時代なのに新政府?と疑問がわきます。
知っている方は、グレー部分は読みとばしましょう。

(参考)新政府が江戸時代にいた理由

1867年の「大政奉還」で、政権は天皇へ返上したものの、将軍は辞任しておらず、実質的に政務を執り行っていました。まだ江戸時代のままです。

おもしろくない諸藩は新政権を打ち立てるため、クーデターを起こしました。それが、天皇からの勅令として、明治新政府の設立を宣言した「王政復古の大号令」です。
これが、新政府軍vs旧幕府軍の戊辰戦争の始まりです。
1868年8月に本州での新政府軍の勝利は落ち着き、9月に明治天皇が即位式(孝明天皇が亡くなった1867年2月に即位はしていた)をして、明治時代が始まります。

これが、新政府なのに江戸時代だった理由でした。
もし負けていたら、反乱軍という記載で官軍とは書かれない歴史が待っていたでしょう。
でも、またですが、歴史に「たられば」はありません。

そこで、戊辰戦争に参加した加賀藩の戦死者を祀るために明治3年に卯辰山招魂社が作られることになりました。
そのおかげで、能舞台と唐門が移築され、明治14年の二ノ丸御殿火災を逃れることができました。

その後、西南戦争、日清日露戦争と戦争が続き、英霊の数も増えたため、練兵場の一部に新しい拝殿をつくり、招魂社は御霊を遷しました。
今の石川護国神社です。   

石川護国神社

明治維新で主がいなくなり残された能舞台と唐門は、卯辰山で招魂社となり、その移動で再度、取り残されることとなりました。

能舞台だった中村神社拝殿

街中にあって、今ではアピタや満天の湯に囲まれていますが、中村神社は由緒ある神社です。

神社の由来には、「古来より鎮座し」とあります。
どのくらいなのかとパンフレットを見ると、平成21年に御鎮座壱千百年事業により、老朽化防止のガラスサッシを作ったとあります。
2009ー1100=909 平安時代です。

能舞台は、昭和42年に中村神社拝殿となりました。
昭和40年ごろに神社社殿の老朽化による新築計画が出たとき、所有者の護国神社と協議し、卯辰山に取り残されていた能舞台を拝殿として譲り受けることになったからです。

サッシで保護された中村神社

中に入ってみます。

四方を囲む彫刻と格天井が豪華です。

さすが加賀藩主の能舞台と感心していると、「天井は能舞台のものではないんです」と言われました。

天井部分は、能舞台を移築する際に、二ノ丸御殿の御小書院の格天井を切り縮めて作られています。

クロスの金具のたくさんある天井

後で、「金沢城二の丸御殿に関する令和2年度の調査」を見てみると、金具の位置、釘痕などから御小書院の天井だと判定されていました。

額装された天井画

拝殿の右側に、御小書院の天井画があります。
右と左で、時代は違います。右は紙が継がれていていることから、紙が貴重だったより古い時代のものだと判定されています。

二ノ丸御殿の小書院が復元されるときには、中村神社の天井ももとのこの色合いになるかもしれません。

欄間の彫刻や下の部分は、二ノ丸御殿の奥能舞台の建物です。

2つあった能舞台のうち、藩主の寝室に近いよりプライベートな奥能舞台でした。

江戸時代後期の図面

江戸前期の元禄のころの図面には、まだ奥能舞台がありません。

元禄年間の図面

奥能舞台は、1759年の宝暦の大火で二ノ丸御殿が焼けたあとにつくられたものです。

能舞台の欄間は、波をまとった龍の豪華な彫刻です。  

この龍が水を呼んで、火災を逃れたのだと言われています。
目には、金箔が使われています。

金色の目

龍の目の先には、前田家の家紋の梅もあります。

真ん中に見える木組み

角の部分も、柱の木組みがどっしりとした雰囲気です。
お参りして、帰ろうと表の入口から振り返って見た龍は、うっすら緑色のめをしていました。

うっすらと緑色の目

ここにも、もともとは金箔が光っていたものと思われます。

中から見ても、外から見ても、見事な龍の彫刻でした。

最近気になる狛犬、こちらのものはブロンズタイプですが、くるくると炎のようなかっこいい尻尾です。

尾山神社の東神門として活躍している唐門

尾山神社は、加賀藩祖前田利家を祀る神社です。
その門に、金沢城の門があるのは風流だと個人的には思っています。

さて、この唐門、二ノ丸御殿のどこにあったのか見てみると、ここでした。

江戸時代後期の図面

五十間長屋の側です。
門に近づくと、こちらも立派な彫刻です。

上には、2匹の龍、下には波です。
唐門も、中村神社と同じく、この彫刻の龍が水を呼び、火災の難を逃れたと伝えられています。

瓦にも、前田家の家紋の梅がありました。
反対側から見ると、

金沢城の石垣、そしてかすかに三十間長屋が見えています。

2020年の夏には、金沢城と神社の場所にあった金谷出丸を結んでいた鼠多門橋も復元されました。

鼠多門(右)と尾山神社(左)を結ぶ鼠多門橋


尾山神社はステンドグラスの入った山門が有名ですが、ここへ来たら、もう一息、奥まで進んで唐門にも拝謁しましょう。

金沢では、普通に街中を歩いていても、このように実はお城の建物だったというようなものに出逢います。
散策するときは、あれ?と思うものがあれば接近してみましょう。

参考
「よみがえる金沢城 2」

金沢城二の丸御殿に関する令和2年度の調査https://www.pref.ishikawa.lg.jp/kouen/siro/01seibikeikaku/ninomarugoten/documents/siryou3.pdf

石川県ホームページ 金沢城二ノ丸御殿の復元整備に向けた基本方針
https://www.pref.ishikawa.lg.jp/kouen/siro/01seibikeikaku/ninomarugoten/documents/kihonhoshin.pdf

令和4年年頭知事記者会見
https://www.pref.ishikawa.lg.jp/chiji/kisya/r4_1_4/1.html#09

金沢市立玉川図書館近世資料館 
平成24年春季展「加賀藩と北越戦争」パンフレット

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