
「学都」金沢のおすすめ建築 〜石川四高記念文化交流館〜
レトロ建築「しいのき迎賓館」を見てきました。
その並びにもう一つレンガ造りのレトロな建物があります。

1月はかなり雪が積もっていました。
雪があると見にくいので、雪のあまりないときの少し離れた場所からも。

第四高等中学校の校舎としてつくられた建物です。
四高(第四高等中学校の略)は、明治19年の中学校令により、日本で最初におかれた5つの高等中学校のうちの1つです。
官民一体となっての誘致運動の賜物です。
驚いたことには、四高の学校創設費12万円がすべて寄附でまかなわれていました。
(内訳: 加賀旧藩主前田家8万円、地元有志4万円)
江戸時代は大藩だった加賀藩ですが、金沢は明治に入り奮わず、人口が幕末の3分の2くらいまで減っていました。
起爆剤として、切望の学校創設だったのではと思われます。
建物は、明治24年に完成しました。

明治三十一年の金沢の地図を見てみると、四高の隣に今のしいのき迎賓館、石川県庁があります。
向かいには、今もその場所にある金沢市役所があり、現在の金沢広坂エリアの基礎がすでに出来上がっています。
その後、旧石川県庁(現しいのき迎賓館)が大正13年に、金沢市役所の庁舎も大正11年には洋風建築となり、広坂にはハイカラな雰囲気が漂っていました。

地図でさらに周りをよく見ると、高等師範学校や尋常中学校もあります。
この辺りは、新しい建築が建ち並び、学生の闊歩する賑やかな場所でした。
まさに「学都」金沢です。
現在でも金沢には、金沢大学、北陸大学、北陸学院大学、金沢星稜大学、金沢学院大学、金沢美術工芸大学と多くの大学があり、「学都」金沢の風潮は残っています。
四高建築の地元産レンガ

チラッと見るだけでは、明治のよくあるレンガ建築ね〜と思われるかもしれません。
でも、違います。
地元産のレンガが使われています。
当時、レンガは輸入品で高価なものです。日本ではレンガ製造の技術がまだ発達していませんでした。
日本初の機械式レンガ工場となる大日本煉瓦製造が、あの渋沢栄一によって明治20年に設立されたばかりの時期です。
そのため、文部省は地元産レンガを使うことに乗り気ではありませんでした。
そこを、加賀藩の陶芸家、諏訪蘇山が直訴して地元産レンガ建築が実現したと言われています。
蘇山は、40年かけて、美しい青色の砧青磁を再現した今の人間国宝のような人です。
市内寺町の興徳寺の鬼子母神像は、諏訪蘇山作品です。青磁の祖だけあって、青が鮮やかです。

レンガの積み方は、イギリス積みで、長いレンガだけの段、短いレンガだけの段に分かれています。

レンガも何種類も使われています。
建物の下のほうを見ると、1番下が濃い色になっています。
これは、焼き過ぎレンガと呼ばれ、硬く焼きしめてあり、水や雪に強いレンガです。
雨や雪の多い北陸の気候を考えてのものです。
上のほうを見ると、雪に配慮した雪止めもあります。

金物グリルといいますが、雪止めにしてはこちらも流麗な形をしています。

レンガを見ると、窓の縁のほか真ん中と上に白いレンガのラインがあります。
白いレンガは、九谷焼の原料の陶石を使っているのではと言われています。
赤いレンガは、地元の土を使ったものです。
洋風のレンガ建築だけれど、金沢ならではの建築です。
窓の下に使われている石も、地元の戸室石です。
窓の縁も、1階と2階でデザインが違っておしゃれです。

換気口のデザインも、金属部分と調和しています。

四高の中を見てみると
いざ中へと向かいます。

玄関の柱の装飾も、よく見るとアールヌーボーのような華やかさ。

中に入ると、 アーチがあり、窓の続く廊下です。

窓の下の部分は、傾斜しています。
これも、北陸ならではの淡い光をできるだけ中に取り入れるためのものです。
窓は、教室も同じで、明治時代の洋風建築の主流で縦開き式です。

床は、作った当初のもので、時を経て、多くの人が通ってきたのでツルツルになっています。
でも、端っこは人が通らないので元のザラザラした質感が残っていると、これまたレトロ建築ツアーに参加したときに教えてもらいました。

階段を登って2階へ行きます。

橋などの欄干の擬宝珠(ぎぼし)のような手摺りです。

手摺りの側面のデザインは、四高の校章、北極星を表す「北辰星章」がモチーフです。
校名の四高から、四稜星(角が四つの星)になっています。

平なところと傾斜のあるところで、微妙な違いがあります。
2階の廊下を進むと、多目的利用室があります。

教室の机や椅子はさすがに残っていませんが、復元したものを教室に置いであるので、学校の様子が分かります。

机と椅子のくっついているタイプで、机は開くようになっています。

こういうなかで、小説家の井上靖さんや建築家の谷口吉郎さんが勉強していたのね〜とミーハーに思いました。
建物前にある記念碑は、卒業生であるその谷口吉郎さん設計図のものです。

四高の造り
最初に5つ作られた高等中学校は、すべて同じ文部省の設計者が手がけています。
現存するのは、四高と熊本の五高ですが、造りはそっくりです。


四高の平面図を見ると、廊下が入口から入って奥の北側になっています。
これも、窓の下の傾斜と同じで、できるだけ光を中に入れるためです。

五校のものを見てみましたが、ほとんどが同じで、違いは廊下が入口から入って手前の南側にあることだけでした。
熊本は暑いので、北陸と反対に光が入って暑くなりすぎないように南に廊下を配置したものです。
でも、この違いは明治30年代に、どちらが衛生学的に正しいのかと論争になります。
決め手の理由は分かりませんでしたが、結果的に北側が正解となり、四高がそれ以降の学校建築の源流となりました。
明治33年岡山に第六高が、34年鹿児島に第七高が、明治41年には名古屋に第八高が建てられています。
北廊下なはず!と図面を探してみましたが残念ながら見つけられませんでした。
四高建築のその後
戦後、連合軍による民主化政策で新しい教育制度ができて、旧制高校は廃止になりました。
昭和24年に金沢大学第四高等学校として包括されます。
その頃の金沢市内地図を見ると、先の明治の地図では四高とあったところが、金沢大学理学部となっています。

金沢大学が移転したあとは、金沢地方裁判所、石川県郷土資料館、石川近代文学館と変わっていきました。
平成20年(2008年)に石川四高記念文化交流感としてリニューアルされ、今に至ります。
別の角度から見ると、ガラスのモダンな部分がありリニューアルされていることが分かります。

初代館長は、四高を創設するために8万円の寄付をした前田家の18代当主です。
ここでも、加賀藩を感じる金沢でした。
でも、現代的なプロジェクションマッピングやコンサートのイベントがあったりもします。


帰る前には、表にある守衛さんのいた門衛所も同じ明治建築なので、忘れずに見ていきましょう。

参考
「金沢市史 資料編17」
金沢レトロ建築めぐり〜近代建築ガイドパンフレット〜 第四高等中学校本館
明治中期の 高等中学校に み る高等教育 施 設 の 成立 過 程
https://www.jstage.jst.go.jp/article/aijsaxx/304/0/304_KJ00003901266/_pdf
熊本大学五校記念館ホームページ
http://www.goko.kumamoto-u.ac.jp/history2.html
レトロ建築見学会