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金沢城を一周してみると(北〜東〜南編)

金沢城の本丸や二の丸は焼けてしまって、現在は存在しません。

金沢城公園内に、三十間長屋や鶴丸倉庫など江戸時代の建物も残っていますが、今回は中に入らず、お城のまわりを一周します。 

戦災にあっていないこともあり、地図を見るとほとんど江戸時代から変わっていません。

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1. 金沢城の正門、大手門から

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正門だっただけあり、石垣にも大きな石が使われています。

大手門の前には、唯一江戸時代のまま残っている大手掘があります。

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お堀は、桜の名所としても知られていました。
ただ、去年の秋から今春にかけて、ソメイヨシノの木が植え替えられました。今は小さな桜の木が、並んでいます。

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大手堀の桜(4月撮影)

10年後に、どっしり大きな木に育って、花の雲が浮かぶのを期待しています。
お堀沿いは、夜もライトアップされているので、夕涼みにも最適です。 

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道路を挟んで大手門の向かい、右手にはモダンな建物があります。大手町病院です。 

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壁のゆるやかな曲面が特徴的です。
この場所には、加賀藩の老臣一万石の津田玄蕃(つだげんば)邸がありました。
お城のまわりには、信頼できる家臣を配置しています。
その邸宅の遺構は、保存のため兼六園に移され、驚いたことに管理事務所として使われています。

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玄関と式台は、江戸時代のままです。玄関を見るだけで、そのデザインや細やかな彫刻からお屋敷の立派さが想像できます。

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大手門から向かって、病院が右手とすると、左手の少し奥にパン屋さん「マシマシ」があります。

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前にここのパンをお昼に買って、金沢城公園のベンチに座って食べていたら、トンビにカシュっと盗られてしまいました。トンビのお墨付きです。 

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犯人のトンビ

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大手門、中に入りたい心を押さえて、通り過ぎてください。 

2. 白鳥路

細い遊歩道を行くと右に、「歩兵第七聯隊跡」の石碑があります。
金沢城は、明治初期に陸軍省の管轄となり、第七聯隊の兵営がありました。
チラリとWikipediaを覗くと、「第七聯隊」は西南戦争、日清・日露戦争、上海事変で上海上陸、そして満州へと主要な戦争の全てに関わっています。

戦争はもう起こりませんようにとさらに進むと、白鳥の像がいます。

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そこからは白鳥路です。 

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ここも、白鳥堀という金沢城のお堀でしたが、明治の終わりごろに埋め立てられました。
よく見ると、木立の背後に石垣らしきものが見えます。

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白鳥路には、金沢の三文豪の銅像や、他にもいろいろ像があり、アートも楽しめる小径です。

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大手堀から白鳥路(6月撮影)

せせらぎにホタルが見られるとのことで、7月半ば夜に行きましたが、ややとき遅く、今年は見られませんでした。 

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ここを抜けると、加賀藩の祖、前田利家公の像が待っています。

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いつの間にか、大きな黒松を従えています。武家地跡にあったものを、去年の秋に移植したものでした。黒松も主人の仕えた藩主のそばに来られて本望ではないでしょうか。
利家像の後ろには、池があります。

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わきにひっそりとある細い道を奥へ行くと、池の水源のようなものがありました。辰巳用水の水を引いているのか気になるところです。

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3. 百間堀と石垣

先に進んで、金沢城公園と兼六園を繋いでいる石川橋の下のトンネルを通ります。 

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もう予想がついている方もいるかもしれません。そうです、この道路もお堀でした。

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百間堀です。
実際は幅約70mで、百間はなかったのですが、その広さからこの名前で呼ばれたといいます。
人気お花見スポットです。 

実は、この百間堀の桜は明治38年に日露戦争の戦勝記念に植えられたのが始まりです。
その後、百間堀が埋め立てられ、周りを公園化するという計画を進められました。

石川橋を抜けると、外堀公園が右手にあります。ここが、そのときに公園化されたところです。
石川門が見えて、お城の雰囲気満載です。

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百間堀の桜が楽しめるので、コロナ前まではブルーシートを張り、お昼から場所取りをして、夜には賑やかなお花見が繰り広げられていました。

この辺りの石垣は、江戸時代後期に修築されています。
当時の担当者は、「堀縁の石垣は粗く積むのが作法である」という考えでした。
そこで、本来なら勾配に合わせて石を置くところを、わざとずらして荒々しく見えるように積み直しています。
近寄ってみると、たしかにガタガタです。

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百間堀のお堀(今の道路)に面している石垣は、刻印に特徴があるということで、探してみました。
丸、二重丸、四角と10メートルちょっとの間にもいろんな種類の刻印が見つかりました。

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ここから先の金沢城の南の角にあたる石垣は、明治に積まれたものです。
道路を建設するときに出っ張って橋になっていたところを取り除いて、積みなおしされました。

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江戸後期から使われる「谷積み」という積み方です。石を斜めに積むことによって、押し合う力が働き、安定性があると言われています。
明治、大正時代には、まだセメントが高く、道路工事、護岸工事でこの谷積みが利用されていました。

少し離れたところからだと、江戸時代に積まれた部分も合わせて、何段にもなる石垣の層が見えます。

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この辺りが、ちょうど南端です。
次回は、残り半周、南〜西編です。
向かいにある鯉喉櫓台(りこうやぐらだい)から、いもり堀を通り鼠多門橋を抜けていきます。

面白いモダン建築もあるので、それもご紹介します。


参考  
外堀公園の石垣


石積構造物の整備に関する資料
https://www.mlit.go.jp/river/shishin_guideline/kankyo/stone-structure/s-1.

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