金沢の繁華街、香林坊のはなし② 〜東急スクエアと金沢大神宮〜
前回、香林坊アトリオと向かいの地下への降口までまわりました。
今回は、地下から東急スクエアへ。
香林坊パセオ
地下は香林坊パセオと呼ばれています。
paseoは、スペイン語で散歩道。公募で選ばれていて、スペイン語からとったのかは不明です。
でも、地下も散策するように楽しめる空間とイメージできていいネーミングだと個人的には思いました。
円形の天井に、照明は格子状になっていて、どこか日本建築の格天井を思わせます。
壁を飾っているのは、江戸時代後期に描かれた金沢城下図屏風の一部を拡大したものです。
犀川大橋付近が、賑わっていた様子が分かります。
香林坊は、明治半ばにさらに発展して、金沢随一の繁華街になっていきました。
明治8年(1875年)に近くにある金沢城へ陸軍歩兵第七連隊が入り、明治24年(1891年)には、四校の校舎ができ、人が集まるようになったからです。
四高の校舎は今も、香林坊アトリオの隣に残っています。建築もおすすめなので、通りかかったら寄ってみましょう。
地下から地上へ出ます。
東急スクエアです。
東急スクエアと金沢大神宮
エントランス付近に柳があります。柳の隣にあるのは、地元の俳人、小松砂丘の句碑です。
句碑は昭和33年に置かれたものです。
江戸時代後期に香林坊に柳がはじめて植えられ、香林坊から柳が連想されるようになりました。
この句もそうして詠まれたものです。
東急スクエアのビルは、香林坊地区の再開発で、1985年(昭和60年)に地方第1号の109として作られました。
2016年(平成28年)に、リニューアルされて、より大人向けの東急スクエアに生まれ変わりました。
北陸初の東急ハンズも入っています。
冬の夜には、ライトアップもあってムーディーです。
エントランスから建物の中に入ると、円形の天井にお花のような装飾で華やかです。
この上は、螺旋階段になっています。
入って右にエレベーターがあるので、それに乗ってしまって気が付きにくいところですが、たまにはきれいな螺旋階段を登るのもよしです。
当初、「地元の旅館とは競合しないハイクラスホテル」として入った東急ホテルとの間には、癒しモダンな空間があります。
東急スクエアのあるこの場所には、かつて金沢大神宮(通称:香林坊大神宮)がありました。
明治23年に金沢大神宮の神殿が建てられ、境内には劇場や芝居小屋が並んでいました。
明治の地図を見てみると、四高のすぐそばに大神宮があります。
大神宮とあるのが金沢大神宮で、福助屋とあるのは芝居小屋です。
この辺りは、陸軍、四高も近いことから若い人も多く活気がありました。
大正から昭和にかけては、境内に活動写真館、飲食店、見世物小屋もありました。
見世物の錦蛇が逃げて騒ぎになったり、火事が出たりとあまり喜ばしくない騒ぎも。
さらに、周りには映画館街が作られました。一大エンターテイメントゾーンです。
大神宮自体は、昭和35年に社地を売却し、大手町の高峰譲吉博士邸跡へ移転が決まりました。
高峰博士は、夏目漱石が愛用していた胃薬、タカジアスターゼを発明した科学者です。
昭和39年の地図を見ると、現在の大手町に大神宮会館とありました。ちょうど、高峰博士邸旧邸のあたりです。
今では、マンションと駐車場があり、ひっそりと石碑だけが高峰博士邸跡を物語っています。
今は、工事のため青いシートで覆われています。
日頃は、「高峰博士旧邸」と見える状態です。
金沢大神宮は、その後さらに移転したあと、神社を閉めることとなります。
御神体は、そのときに浅野川神社へと移されました。かわいらしいしっぽの狛犬が見守っています。
金沢大神宮はもうないと分かりつつ、東急スクエアの建物の中にむかし神社があったという話を聞いて、もしや何か関係が?
とビルの香林坊第一開発ビルの方に聞いてみました。
結果は、残念ながら大神宮とは関係なしでした。神社は2つあったけど、どちらも地権者さんの個人の神社。
再開発のときの約束で中に設置してあったけれど、10年ほど前に神社仕舞いをしてなくなってしまった、ということです。
ただ、朗報もありました。
屋上にあったアートスペース、KAMU skyが年内には再オープンできる見通しだということです。
※アート作品の破損で一時的に現在閉鎖中です。
KAMU sky もその1つである現代アート美術館、KAMU KANAZAWAについては、こちらをどうぞ。
鞍月用水と香林坊下商店街
神社から離れます。
東急スクエアの脇には、鞍月用水が流れています。江戸時代には、金沢城のお堀でした。
現在は、爽やかな水辺の空間です。
でも、この用水の上には、昭和末の香林坊再開発までお店が長屋のように密集していました。
香林坊下商店街です。
先の昭和35年略図で見ると、金沢大神宮のすぐ隣です。
さすがに江戸時代からのものではありません。
大正12年(1923年)の戦後復興期に、安価な食料品を提供するため、市内初の公設市場をつくったのがはじまりです。
飲み屋、魚屋、肉屋など20軒が並んでいました。
再開発が決まり、惜しまれながら香林坊下商店街は取り壊されました。
今は、用水沿いは、せせらぎ通り商店街となり、おしゃれなお店が並んでいます。
香林坊へ来たら、用水沿いを散策して、むかしを想像するのも乙なものです。
参考
「よみがえる昭和の香林坊•片町」北國新聞社
金沢の百年 大正•昭和編
https://www2.lib.kanazawa.ishikawa.jp/reference/shishinenpyou_t.htm#meiji