金沢の奥庭、卯辰山へ 〜神社編〜
金沢も、いよいよ春らしくなってきました。
桜のつぼみにも、花びらの色が。
前回、浅野川に沿って、文学の故郷碑のある馬場小学校まで歩きました。
今回は、旧北國街道を挟んで向かい側から卯辰山へ向かって歩きます。
卯辰山は、「むかいやま」「むこやま」とも地元では呼ばれています。金沢の人には親しみのある山です。桜の名所でもあります。
でも、江戸時代には、金沢城が見渡せるということで、入山禁止になっていました。
木町緑地と旧市内唯一の山車(だし)
スタートは、木町緑地です。
木町緑地は、茶人の住居だったということで、茶庭の雰囲気が漂っています。
街中の公園にも、金沢の気配ありです。
江戸時代の地図を見ると、北國街道沿いで賑わう立地だったため、町家がびっしりと並んでいます。
さらに、現在の地図と比べると道筋がほとんど同じです。
建物の中には、金沢では珍しい山車(だし)がありました。
一向一揆を抑えて加賀藩ができているので、江戸時代、藩は街中で群衆が集まることを警戒していました。
大藩にもかかわらず、江戸からの大きなお祭りが金沢にないのはそのためだと言われています。
案内板には、1867年(慶応3年)卯辰神社が完成し、慶賀祭が催されるにあたり作られた山車で、旧市内唯一のものだと書かれています。
御祭礼は、当時のチラシ?と思われるものを見ると何十町もの参加する大規模なものです。
卯辰山ふもとの木町も、チラシ真ん中に載っています。
卯辰神社
卯辰神社(卯辰天満宮)は、卯辰山開拓をする際に守護神として、竹沢御殿から天満宮を移築したものです。
天満宮なので菅原道真、それから開拓のために国土開発の神様、少彦名命 (すくなひこなのみこと)が祀られています。
最後の加賀藩主前田慶寧(よしやす)は、西洋の政策(産業育成、貧民救済など)の影響を受けて庶民のために卯辰山の開拓をしました。
ありがとうの意を込めての盛大なお祭りだったのではと思います。
卯辰山の中腹には、藩主への感謝から名付けられた「帰厚坂」もあります。
宇多須(うたす)神社
木町から奥へと進んでいくと、宇多須神社があります。
卯辰山の名前が、古くは宇多須山というところから来ています。
1599年には、加賀藩祖前田利家を祀る「卯辰八幡社」となりました。
江戸時代には、ずっと八幡社だったので町名も八幡町とつけられていました。宇多須神社と改称したのは、明治に入ってからです。
途中、たまたま小学生の「うつくしい宇多須神社」と題された絵が貼られているのを見かけました。
「宇多須神社のこまかいところを見てほしいです。屋根はかくのがむずかしかったけど、がんばってかけました。なので屋根も見てほしいです。」とコメントも。
アドバイスにしたがって、わたしもよく見てみることにします。
入口に車寄のような部分があるものの、なんとなく伊勢神宮を思わせる造りです。
前田家ゆかりの神社ということで、前田家の家紋の梅がところどころに見られます。
由緒ある神社ですが、面白い神社です。
境内には、密かに忍者も。
ひがし茶屋街がすぐそこなので、節分には芸妓さんも登場しての華やかな豆まき行事が行われます。
この神社の横には、水門があり、水を貯める場所がありました。
卯辰山から流れる矢の根川の水です。
神社の裏手に回ると、川の流れが見えました。
さらに、すぐそばに慈雲寺もあるので寄ってみます。
慈雲寺(じうんじ)
剣術で有名な冨田(とだ)流の宗家の菩提寺で、法華宗のお寺です。
冨田家の立派な石廟や五輪の塔があります。
案内板を見ると、七尾から1615年に現在地へ移ってきたとあり、地図を見ると?
地子となっていて、慈雲寺がありません。地図は、1667年のものなので本来であればあるはずです。
気になったので、お寺を訪問します。
聞いてみると、「江戸時代の地図にも慈雲寺と載っているんだけど、そのころの地図にはなぜか名前が記載されていない」
さらに、
「冨田家二代の重政公は藩主の信が厚く、当時は一万坪の高地を与えられ、一大伽藍を作った。まわりにある蓮昌寺さん、宝泉寺さんまで、宿坊やお堂があったんだよ」
とのことです。
※重政公は、前田家兵法指南役で加賀藩祖前田利家に仕えていました。
後日、近世史料館へ行きましたが、江戸時代前期の地図では、慈雲寺の記載は見つからずでした。
一万坪の寺地が分かる地図は残念ながらなさそうです。
慈雲寺のまわりのお寺も気になってきたので、話に出てきた蓮昌寺、宝泉寺も行ってみましょう。
蓮昌寺(れんしょうじ)
日蓮宗の前田家ゆかりのお寺です。
先の地図で確認すると、慈雲寺のお隣にあたります。
境内に大きな桜の木があり、お寺の窓への映り込みがきれいでした。桜の花の季節には、さらにきれいそうなので、今年はここにお花見に来ようと決めました。
金沢の3大仏の1つがあって、自由に見学できます。
看板も、洒落ていました。
再訪したところまだフライングでしたが、つぼみが育っていました。
数日中には、きれいな桜が見られそうです。
宝泉寺
真言宗のお寺です。
前田家から一万坪の寄進があり、慈雲寺で話の出ていた冨田重政公が、金沢城の鬼門にあたるこの地にお堂を建てて、本尊の摩利支天を安置したのが始まりです。
摩利支天は、古代インドの女神がルーツです。
日本では、中世以降に武士の守護神として信仰されていました。楠木正成も、兜に小像を入れていたといいます。
境内には、古くから天狗が住むと言われている五本松の木があります。
この五本松の前からは、浅野川沿いに瓦屋根の並ぶ景色が見られます。
今回はふもとの神社めぐりでした。
次回は、卯辰山を登って九谷焼の再興のきっかけとなった窯跡を探します。
参考
摩利支天ホームページ
https://gohonmatsu.or.jp/marici/ongyo/hondo
摩利支天ーWikipedia
卯辰山山麓寺院群パンフレットー心の道