金沢の繁華街、香林坊のはなし① 〜地蔵尊とアトリオ建築〜
金沢で繁華街といえば、香林坊です。
香林坊地蔵尊
繁華街の真ん中に地蔵尊がポツッとあり、違和感を醸し出しています。
香林坊地蔵尊です。
香林坊の地名のもとになったのは、一説によると当地にあった薬種商が婿に迎えた比叡山の僧「香林坊」です。
加賀藩祖前田利家の眼の病を地蔵尊のお告げで処方した目薬で治したことで、香林坊家は評判となりました。
江戸時代には、鞍月用水が流れていて、香林坊橋がかかっていました。
昭和61年(1986年)の香林坊再開発で、橋は取り払われてしまいましたが、道路の両脇には橋の親柱が残されています。
江戸時代から現在に戻り、地蔵尊の隣を見ると香林坊アトリオがあります。
香林坊アトリオ
この建物は、香林坊橋の取り払われたときの再開発により、できたものです。
中に入ると、オルセー美術館を連想させるようなアーチと時計があります。
新時代の情報発信基地のイメージで、時計や多目的ステージがつくられました。
バブル期だったこともあり、床や柱には豪華な大理石が使われています。
各階でデザイン違いのマーク。
イカの化石もあると本にあったので、探してみましたが見つからずでした。
悔しいので、警備員さんに聞いてみるとイカではないけど、1階エレベーター登口あたりの柱には何かがあるとのこと。
白いものを発見しましたが、これが何かは分からずもんもんとすることとなりました。
金沢なので、古いものと新しいものの調和も考えられています。
1階の床は、どことなく石畳風で、しかも外とつながるようにラインも引かれています。
そして、外観も石畳を思わせる外壁で、暗くなって照明が当たるとしっとりとした雰囲気です。
金沢市内には用水が55本もあることから、用水と家並をモチーフに地下の売場も作られています。
今見えるお店の上には少し格子があるだけですが、当初は瓦屋根もつけられていました。
リニューアルされていて、手前のお菓子売り場は、お洒落なイメージ、奥にあるスーパーやお惣菜売り場は、市場のイメージです。
地下出口には、ひそかにトップライトがあります。
昼間も光が差していいですが、夜は幻想的です。
実は、これは地上部分にあるピラミッドを下から見ています。
これも、夜になると幻想的です。
近未来的ということで、外からエレベーターが見える造りです。
エレベーターから眺めると、元日本銀行金沢支店とその奥に金沢の街並があります。
せっかくなので、屋上へも行きましょう。
昔なつかしいプレイランドとなっていました。
この香林坊アトリオ、香林坊大和は、金沢に2つある地元デパートの1つです。
以前、もう1つの金沢エムザ訪問のときに、屋上に神社がありました。
ここでも探してみると、奥に稲荷神社がありました。
神社名はなく、詳細は分かりませんが、金沢エムザと同じく百貨店の繁栄を願っておかれた神社とみました。
お祈りして、目を上げると、小ぶりな社ながら立派な龍の彫刻です。
追加で手を合わせ、対角線上を移動すると、もう1つ神社が。
入れません。
この神社こそ、会社のプライベートなのかもしれません。
さらに奥へ進み、柵からのぞくと、隣の四校記念公園も見えます。
四校記念公園側は、先の照明の映える外壁のところです。
公園に面しているので、入口にも緑が映りこんで爽やかです。
この入口横には、公衆電話があります。2台分のスペースですが、1台のみです。
香林坊アトリオのオープンした昭和61年(1986年)には、携帯電話はほとんど普及しておらず、公衆電話は必需品でした。
令和4年情報通信白書によると、平成12年(2000年)に初めてPHD・携帯電話契約数が固定電話数を抜いています。
そこから、公衆電話は約60万台減り、約14万台。
道路を渡り、地下に下りるところに、他にも公衆電話の跡があります。
時代の変化を感じさせます。
ここには、さらにその頃製作された彫刻も置いてあり、天井の灯り取り、いろいろな素材の柱、入り組んだ形の壁とバブル期の気配があります。
反対側にも、彫刻があります。こちらは、2004年と新しい作品「走れ」です。
このそばには、兼六園のことじ灯籠のデザインの手すりがあります。金沢です。
次回は地下へ降りて、向かいの東急スクエアへ。
参考
「新しい香林坊を歩く」
「香林坊物語」
「金沢町物語」
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?