⑨YUKARI ジャズ・フルーティスト No.7 NYの日本人として
「JAZZは、白人が洗練させていきましたが、オリジンは黒人の音楽で、
アフリカ人のミュージシャンの会場の持って行き方、
ステージの空気の作り方というのが本当に素晴らしくて、
日本人の私は、大いに学びました。」
本物のプロの演奏を目の当たりにして音を聞けば、瞬時にそれがどれほどすごいものなのかがわかる。
「衝撃を受けました。
でも、笑ってしまうのですが、自信喪失するどころか、
そういう素晴らしいアーティストの演奏を聴けば聴くほど、
自分が行くべき道だと確信したんです。
NYとはまるで縁のない田舎で育って、音楽を聴く機会もなかったのに、
本当に不思議でした」
やるべきことでしかなかった、としか言いようがない。
まさに自分がアウトプットできるもの、表現したいものが、そこにあった。
具体的にその瞬間旋律になっていなくても、自分独自の世界が表現できるはずだと疑わなかった。
「人間はそれぞれやるべきことがあって生まれてくる。
それに従って生きているのだと思いました」
・ニューヨークの日本人として
NYという人種のるつぼの中にいて、人種差別というか、
東洋から来た人という目で見られる。
「その中で逆に、ポジティヴな面に目を向けると、日本人の真面目にコツコツと努力するとか、日本人の感覚や文化である『わび』『さび』とでもいうのでしょうか、
音と音の間を、『沈黙』とか『空白』としてとらえるのでなく、
音がない間を包容して、それを音楽の一部ととらえられる感覚を持っているということがあります。
それは黒人のアーテイスト達にはなかなか無い感覚なので、
その日本人の感覚を上手く生かしながら音を作っていくようにしていったら、
自分の気持ちも楽になり、周りからも好感触を得られるようになっていきました。」
自分をどうとらえて、どう意識するか、に着目して掘り下げていき、
一見ネガティヴと思えるところをポジティヴなものに変えていくことができたのだ。
間や影を美しいと感じられる日本人だからもっている感性や、
改めて日本文化の神髄を追求していったら、気付けた感覚だった。
アメリカというJAZZの本場で、技術的には、
努力によってある程度の水準まで行けても、
その先の「個性の出し方」を見出すのには何年もかかった。
日本に居たままであったり、たとえ海外にいても、
常に心の片隅に意識していなかったら、辿り着けない境地だったかもしれない。
「NYは非常にエネルギーの強いところで、歓迎されていると、
色々とラッキーなことが起こるんです(笑)」
NYはジャズのメッカであるばかりでなく、
Yukariさんにとっては、夢を実現できるパラダイスだった。
自由の風が吹いていた。
独特の空気は、「自分も、素晴らしいミュージシャンになれるのだ」と、確信させてくれた。
「そんないい意味での『勘違い』の毎日が続くと、
いつの間にか夢が現実に、現実が夢になり、
気がついてみたら長年憧れていたミュージシャンと一緒に演奏するようになっている、
なんてことが起きる不思議な土地なんです」
自由の女神を眺め、
「まんざら、リバティ島で緑青化して佇んでいる巨像なだけではないのかもしれないな」と、
そんな思いが脳裏をかすめた。
女神のサポートを肌で感じていた。
通訳や、ピアノとフルートを教える多少のアルバイト収入、
あとは貯金を削っていくぎりぎりの生活だったが、
何よりも毎日どっぷりと音楽に浸かっていられることだけで幸せだった。
いつかプロとして観客を感動させる格好いい音を作りたいと、
頭の中にはそれしかなかった。
寝ても覚めてもJAZZ三昧の幸せな日々。
YukariさんはNYで文字通り人生の夏を謳歌していた。
(次回に続く)