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⑩YUKARI ジャス・フルーティスト No.8 競争社会の中で

②競争社会の中で

・マンハッタン音楽院

そんな生活を4年程続けて、
「理論をきちんと勉強しなければ、成長も頭打ちになってしまう」、
という思いに至る。

夜昼逆の生活を変え、アカデミアの場で学ぶことにした。

最初に、公立の学校の門をたたく。
が、内容に物足りなさを感じ、世間でよく言われるところの
「クラッシックのジュリアード、ジャズのマンハッタン」、
ジャズでは世界1,2の評判を持つマンハッタン音楽院に移る。

さすがに、最高峰の冠にたがわぬ授業内容と環境だった。

一般教養の単位はコロンビア大学と提携していて、
世界トップクラスの授業を受けられたことに加え、
教師も学生もまさに音楽界のエリートの集団だった。

デイヴ・リーブマン(1946- サックス)、グレッグ・オズビー(1960- サックス)、
スティーブ・ウィルソン(1961- サックス、フルート他、マルチ演奏者)、
リンダ・チェーシス(クラッシックフルート)等、
教授陣はジャズ界のそうそうたるミュージシャン達。
作曲は、独創的な教授法で名が知れたレイコ・フーティングに師事する。

学外でもジャズフルートはルー・タバキン、
クラシックフルートはパット・スペンサーの個人レッスンを受けていた。

マンハッタン音楽院は、私立の学校で、
欧州の学生は国から奨学金をもらって留学してきているケースも多く、
学費もかなり高額。
奨学金は受給したが、すべてをカバーできるわけではなかった。

途中演奏活動に専念するため1年休学した期間を除き、
4年かかるところを必死で2年半で卒業した。


修士課程の学位取得には相当の金額を要し、
学位こそとらなかったが、可能な限り貪欲に単位を取得した。

1クラス12.3人程の少人数制だったので、密度の濃い授業を受けることができた。

クラッシックから移行した者にありがちなクラッシックの癖が抜けなくて苦労したが、
教師陣の対応も上質で丁寧だった。

ジャズ科とはいえ、まずクラシックの理論からはいり、
クラシックの理論の延長線上にジャズの理論があるように課程が進み、
大きな視野で音楽を見られるようになった。

「実践もですが、、、
理論的なことで言うと、当初、和音のコード表示と進行を理解するのに苦労しました。

符読みは問題はなかったのですが、ジャズの場合は全て記号化されていて、
どの音をだしたらいいか、感覚ではわかりましたが、
なぜそうなるのかすぐに頭にはいってこなかったんです。

数学の苦手な私は、ハーモニーが数字で表わされていることにたじろいでしまいました。
成績も芳しくなく、初めて音楽家への道に不安を感じました(笑)

勿論、魅力的な音を作るためには必要な知識でしたし、
共演者の演奏を理解するには大いに役立ちました。

それを学ぶために学校に入ったのですから、とにかく、こなしていくしかありませんでした。」

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高校時代に既に賞をとっていたり、腕にも知識にも自信を持っている実力者が数多くいた。

クラスでは、アジア人で、しかも女性は自分一人、
白人優位の環境で打たれ強くなるしかなかった。

まさに競争世界だったが、今も交流が続くいい仲間もできた。
バンドを組むメンバーとの出会いや発表の場を持てるあらゆるチャンスもそこにはあった。

(次回に続く)

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