6/100 手塚治虫「手塚治虫エッセイ集1」/ 日常とはかく素晴らしき
一昨日は仕事の後に渋谷の東急本店へ。その前日に地下一階の食料品売り場がオープンすることを知ってどんなに気持ちが華やいだことか!
時間を作って子と足を踏み入れるとそこは、なかなかの賑わい。顔馴染みの店員さんにこの1ヶ月どんなに不自由したか力説するマダム(数人いた)を横目に店内をぐるっと回る。みな心なしか高揚して商品をカゴに入れて、ただ緊急事態宣言の前みたいにカゴをパンパンにするのではなく、必要なものを必要なだけ。
買い忘れたら、また買えばいいしね。
その安心感ときたら最高で、そういえば最後に東急本店に来た時は、今思うととても不安を抱えていて、何をどれだけ買ってもちっとも満たされなかった。
それはほんの1ヶ月前の出来事。それなのにずいぶんと、昔のことのように思える。
手塚治虫の終戦の晩を綴ったエッセイにこんな一説がある。
十五日の夜、ぼくは夢遊病者のように電車に乗って大阪へ出ていった。とにかく動いていないとたまらなかったのである。車内はがらんとして幽霊電車のように空虚であった。 「おお、大阪の街に灯がついている!」 ついているのだ、魚の目玉ほどの灯があちこちに! H百貨店のシャンデリアが、はげ落ちた壁の間で、目も眩むばかりに輝いている。何年振りだろう、灯火管制がとかれたのは? その灯を見ていたら、はじめて平和になったのだという気分がこみ上げてきて、満足このうえなく、踊り狂わんばかりに陽気になった。 ――ヒャア、おれは生き残ったんだ。幸福だ――
手塚治虫「手塚治虫エッセイ集1」
何年も続いた戦争の終わりと、たかが1ヶ月弱のゆるい引きこもり生活を比べるなんておこがましい、ただ私が感じたのはまさにこれ。終戦当時の手塚治虫とシンクロする、そんな心持ち。