親というものに向いてない人
昨日ツイッターで「レンタルなんもしない人」さんのこのツイートを見て思い出した。
私はこどもの頃から自分の両親を「親というものに向いてない人だな」と感じていた。
まず第一に子供が好きではない(というか嫌い)。
自分のペースを乱されるのが好きではない(というか大嫌い)。
自分が好きな事を(それが近しい誰かを不幸にするとしても)優先する。
虐待こそされなかったものの「私はこの人たちには望まれてないんだな」と感じる場面は多々あったし、母には実際に「あんたたちさえいなければ」的なお決まりの台詞を口にもされた。
そんな両親なのでもちろん「夫(妻)というもの」にも向いているはずがなく、まず2人が離婚した。
なんとなくそうなるだろうと思っていたので全く驚かなかった。
父と母、どちらについていくかは子供任せだった。「どっちにする?」と聞かれた時、正直どちらを選んでも同じだと思ったが、まだこどもだった私はこの先迎えるであろう女子特有のあれこれに思いをはせ、母を選んだ。
ところが、母子家庭になった途端、いままで嫌々ながらも最低限はやっていた家事を母が全くしなくなった。ご飯も作らない。掃除もしない。洗濯もしない。
いわゆる育児放棄(ネグレクト)だ。
私は自分たち(私と兄)が放棄されたことよりも、この人はやっぱりなんのかんの言っても父の事が好きだったんだな、父がいる時はしぶしぶやっていた家事も私たちだけのためにはやらないんだな、という事実がショックだった。
育児放棄されたことによる実際の不便(まだこどもなので家事のすべてを自分で上手くできないこと)よりも、薄々感じてはいたけれど母が私たちの事をこれっぽっちも愛してないという事実を突きつけられた事の方がショックだったのだと思う。
哺乳類の子供と言うのは本能的に親を愛するようにできているのではないか。そうしないと生きていけないから。
でも哺乳類の親は見込みのない子を切り捨てて次の子を産むことだってあるのではないか。と考えたりした。
10歳の私には母を憎むことしかできなかった。
自分たちは不幸だと思っていた。
親じゃなくても誰かに愛されればそれでいいんだ、と思えるまでには数年かかった。
「憎む」というのは「愛する」の裏返しだ。
私は母が私たちを憎んでさえいなかった事に怒りを感じたのだと思う。
母も父もたぶん、自分で自分が「親というものに向いてない」と知っていた。
でも2人には決定的に違うところがあった。
それは「選択したのは自分だ」という意識があるかないかという点だ。
まだ一緒に暮らしていた時、到底こどもを愛してるとは思えない父が言った言葉を思い出す。
『親は子供を愛さなくちゃいけないけど、子供は親を愛さなくてもいいんだよ』
どういう流れでこのセリフが出てきたのか分からないのだが、言われた時は「なんかお父さん変な事言うなぁ」とだけ思ったことを覚えている。
今ならわかる。
子供は親を否が応でも愛するようにできてる。でも親はそうではない。
という事に父は自覚的だったのだ。
そして子供は親を選べない。自分が生まれたいかどうかも選べない。
でも親は子供を産むかどうか選べる。
という事にも父は自覚的だったのだ。
おそらく父と母にとって兄と私は望んで作った子供ではない(いわゆるできちゃったというやつだ)。
そうだとしても、もしどうしても子供を持ちたくないなら、彼らには色々と方法があったはずだ。
結果として子供ができる可能性のある行為を自分たちが行ったからには、その責任を取らなければならない、という気持ちが父に先のセリフを言わせたのだと思う。
対して母は自分の選択に無自覚な人だった。
父は子供の私から見ても、決していい父親でもいい夫でもなかったけれど、毎日のように夫への不満(というか悪口)を子供の前で言い募る母を見て、いつも「自分が選んで結婚したんだよね」「そんなに嫌いなら離婚すればいいのに」と思っていた。
2人とも、自分たちが置かれている状況に不満は感じていたはずだ。
でも少なくとも父は自分の責任として受け止めていた。
母は全て自分以外の誰か(主に父や私たち)のせいだと嘆いていた。
わざわざ「子供を愛さなくちゃいけない」と口にした父と「お母さんにはお母さんの人生があるから」と口にした母。
そんな両親の間に生まれた私は、両親と同様にこどもが苦手だった。
自分のペースを乱されることが苦手だった。
できることなら自分の好きな事だけやっていたいと思っていた。
恋人と呼ばれる存在ができても、結婚や出産は考えられなかった。
母の事を思い出しては「好きで結婚した相手を毎日呪うようになるんじゃないか」と恐れていたし、父の事を思い出しては「子供を愛さなくちゃいけないと思いながらも愛せなくて苦しむんじゃないか」と不安だった。
なのに今の私は結婚して子供がいる。しかも2人も。
夫となった人は、正直な気持ち(子供が苦手な事。今のところ自分の子供を産んで育てるという未来は考えられない事。もしかしたらこの先もずっとその考えは変わらないかもしれない事)を話した私をそのまま受け入れてくれた。
「僕としてはゆくゆくはこどもが欲しい。でも先のことは分からないよね。君だって産みたいって思うようになるかもしれないし、僕だってもういいやって思うかもしれない。欲しいと思っても授からないかもしれない。ずっと2人だけなら、それはそれでいいんじゃない?」と言ってくれた。
そんな風に言ってくれたのは、彼が初めてだった。
それまでずっと恋人や友達に「産んだら可愛いよ」「自分の子供はまた全然違うよ」と言われ続けて、子供が可愛いと思えない自分は欠陥品なんじゃないかと感じていた私には、その言葉がとてもうれしかった。
素直に「この人とこの先の人生を歩みたい」と思えた。そして結婚した。
数年後に私は「この人との間に子供が欲しい」と思うようになった。
相変わらず子供が苦手なのに。自分のペースを乱されることが苦手なのに、だ。
でも私は知っている。
私には選択する自由がある。
自分の選択に自分が責任を持てばいい。
その覚悟を夫はくれた。夫との数年間の生活が、その覚悟を育ててくれた。
1人目が赤ちゃんの時は育児が本当に大変で泣いた日々も多々あるけれど、「自分が選択したことだから」という思いでそれを乗り越えてきた。
今現在、私は2人の子供たちをとても愛おしいなと感じる。
いまだにとても自分の事を「親というものに向いている」とは思えないが、自分の子供という存在に出会えてよかったなとしみじみ思う。
これからも、子供との生活に悩んだり苦しんだりしながら、子供を持たなければ知らなかったであろう様々な事を楽しんでいきたいなと思っている。
これから親になる(かもしれない)世代のたくさんの人に伝えたい。
子供は親を選べない。生まれるかどうかも選べない。
でも親は自分で自分の人生を選べる。
産まないという選択肢もある。
産みたいのに産めないという人もいるだろう。
可愛いもん産むに決まってる!という人も、産んでも子供が幸せになれると思えないという人も、他にもいろんな思いの人がいるだろう。
みんなどういう選択をしてもいい。
でも「自分の選択に責任を持つ」という気持ちを忘れないでほしい。
その上で「親というものになりたかったけど、どうもこれ以上は無理そうだ」というのであれば「第三者に託す」という責任の取り方もあるんじゃないかなと個人的には思う。
たくさんの選択肢があるほうが、よりみんなが幸せに生きられる社会だと思うから。