【読書】 『豆腐屋の四季』
この本は、最近再会した昔の教え子に薦められて読んだ本である。厳密に言うと「再会」はweb上でしかしていないし、顔を合わせたわけでもない。薦められたというのも、恩師とともに「読書会をやろう」という話になり、彼が指定したのがこの『豆腐屋の四季』だった。という、なんだか不思議なご縁で出会った一冊である。
まだ読書会は開催されていないが、読後の感想を言語化しておかないといろいろ忘れてしまいそうなので、記録しようと思って書く。
松下竜一(2009)『豆腐屋の四季 ある青春の記録』講談社文芸文庫
昭和40年ごろの日本の記憶
これは、作者の自伝である。戦後の日本、九州で豆腐屋を営んでいた作者が貧しいなかで織り成した短歌とともに、生活感をぞんぶんに散りばめて描かれた作品である。
私は昭和40年代後半の生まれなので、そろそろ五十路を迎えようかという年齢だが、そんなわたしでも知り得ないくらい昔の日本の暮らしがここに描かれている。
その生活の様子は、両親から伝え聞いたその頃の暮らしと重なるところもあり、なのでわたしは、自分の両親や祖父母が貧しさのなかで生き抜いた時代と重ねて、しかしなかなかそれを自分ごとにして読むことは難しいと読みながら感じていた。
なぜ自分ごとにできないのだろう、と思う時、まずは作者と自分が異性であることからくる考え方の違いをおもった。特に作者の妻についての記述が、まさにこの時代を象徴しているようで、そこに反発を覚える自分が戦後の教育で作られた価値観に毒されているのかもしれない、という気づきにはつながった。
明らかにこの昭和の時代と、平成を挟んだ今(令和)には、大きな価値観の違いがあるように思えて、それは何がそうさせたのか、という疑問も沸いた。
それでも、変わらないこと
それでも、この本のなかでも自分ごとにして読めた部分がいくつかあった。
ひとつは、作者は貧しさからくる苦しさや痛みをうたっているのだが、想いの強さが生み出すものの凄み、が伝わってきた。
院にいたころ、自分の研究の方向性に悩んでいたとき、例えば教育に対しての怒りや憤りといった自分のもっている負の感情があり、それを解決したいと考えることが研究に向かう原動力になり得ると感じたことがあった。それと似たシステムで生み出された作品たちだよな、と。
プラスなものにせよ、マイナスなものにせよ、人間の感情が揺さぶられる時、それを表現しようとするときに生まれる力、みたいなものを松下竜一の歌は持っていたんだろうな。
いち豆腐屋として詠んでいたものが、アウトプットの機会を得て、それを評価できるひとに出会えて、彼の人生は動いていった。
やはり、アウトプットは大切だ。いつ、誰に響くかわからない。ずっと誰にも響かないかもしれない。
でもそもそも、まずはアウトプットは自分のためなのだ。想いを表現して形にするために、想いに色をつけて整理をして表現することで、想いを「有る」状態に変化させるのだから。
これはいつの時代でも、どんな形で表現しようとも、普遍の人間の営みに思えた。
もう一つ、変わらないこと
もうひとつは、妻の出産にまつわるあれこれだ。
時代は変わり、出産にまつわる環境も変化しているとはいえ、やはりお産はお産だな、と。母になっていく過程は普遍であるな、と感じた。
おわりに
というわけで、おそらく自分からは手にしないであろう本を、読書会という機会を得て読むことができたことにまず感謝である。
この読書会が本当に開催されるかはわからないが、もし開催されたら、なぜこの本を課題図書として選んだのか、が知りたい。
同じ本を読んで、異なる意見を聞きあうことは文学を味わう醍醐味であるので、読書会が開催されるとよいなあ、と思いつつ、自分の読書を記録しておく。
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