メンターとメンターテキスト - 『国語の未来は「本づくり」』より
最近、ライティング・カンファランス の本を読んでいる。
メンターやメンターテキストの存在がライティング指導に有効という文脈において、リンクしていると思い起こされたのが、こちらの本、『国語の未来は「本づくり」』だ。
P.ジョンストン、K.シャンボー、A.ハートウィグ、S.へるまー、M.コマール、T.クルーガー、L.マカーシー作 マーク・クリスチャンセン、吉田新一郎訳.(2021)『国語の未来は「本づくり」』.新評論
端的にいうと、日本の教育において言えば「国語教育」のなかの「作文教育」への提言みたいな本である。
ただ、わたしは英語もとか国語とか関係なく、「書くこと」についての教育という文脈で読むことを心がけている。これはきっと、英語教育にも役にたつはずなのだ、と。
メンターとメンター・テキスト
こちらのp8の、メンターとメンターテキストに関しての言及はこちら。
うんうん、これは理解できる。そして、
うんうん、つまりお手本にしたい本、だよね。そのお手本から、技を盗んでと言ったら言い方は悪いけど、参考にしながら、「書き手」としての自分の糧にしていくというか。
このメンターとか、メンター・テキストの活用ってところが、日本の教育においては弱いのかな〜って、最近思っていて。
メンター・テキストを与えたとしても、そこから読み取る力が弱いんじゃないか、と。子どもに限らず、大人も。
特に大人は、与えられすぎることに慣れて育ってきているから、そこから何かを学びとる、つかみ取る、みたいな力が弱いのかなあ、と。正解が存在しないオープンクエスチョンの場で、この文章から何を学び取れますか?ってことが、弱い気がする。
なので、そこを鍛える授業をしたい
この本のp96に、メンターテキストの活用例として、作家の書き出しの技を参考にするという提案がある。
自分が作家として、「書き手になる」ことを前提に、本を読ませていくのだ。
単に与えられた本を読むのと、自分が「書き手」になることを前提に読むのでは、「読む」際の心構えから着眼点から、全てが異なるのではないだろうか。
これ、大人もそうなんじゃないか、と。
書き手として
書き手としての自分、を持っていると、読み方が必ず変わると思う。
自分が「書く」前提で、本を読む。すると、本の価値はそれまでの何倍にも広がっていく。
「読む」ことが単に「内容を理解」することにとどまらない、というのは、こういう側面もあるんだと改めて感じたので、記録として書いておく。