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見えないところまで想像しようとすること。

見ようとしないと見えなくなるものって多いと思う。

たとえば、カテゴライズしてまとめてまるめて語ってしまうことで、カテゴライズされた中にある個々の事情や課題は見えにくくなり、語られなくなり、ないような扱いにされてしまっているとか。
(男性とは、女性とは、とか、何かの病気や障害でのくくりとか、地域とか組織とか。まとめて語られたりするけど、結構ひとりひとり違うよね?)

たとえば、自分の知らない問題は感知できないし、自分のあたりまえの外にあるものには気づけなかったりする。見えていても問題に見えなかったり、気づいてても見えている事実は違っていたりすると思う。
(社会的な課題の話とか、自分とは遠い話のように感じて、身近にあっても気づかないこととかもあるよね?)

目の前の困っている人を見ていると、その後ろで困っている人、関わっている人の困りごととかに気づきにくくなるかもしれない。
自分が大変なときだと、まわりの人や目の前の人でも、困っていることに気づけなかったり、違う視点で見てしまうかもしれない。

あるとわかっていたら見れるかもしれないことが、わからなければ見れない。気づかなければ見えない。

見ようとしなければ見えなくなるし、見ようとしてても状況によって視野は狭くなる。

少しでも、見えなくなるものを減らしたいなぁと思う。

でも、こんな活動してる人がいると知らなかったな、こんな課題がある人がいると知らなかったな、と、話を聞いてまたひとつと知っていっても、結局その聞いた話を知るだけだなぁとも思う。
いくら聞いても知らないことはあり、見聞きしたことから想像できることにも限界はある、というのを痛感するだけだったりする。

知ろうとすることはできるし、知らないことを想像しようとすることもできるけど、結局目の前のその人をただ見て聞くしかできないってことだな、って、基本に戻るしかないんだよな。

いろんなことを知っておきたいし、いろんなことに気づけるようになりたいけど、自分の知らないことがあって想像できないことがあって気づけていないかもしれない、っていうことを知っておくしかなくて。
それでも(それだから?)知りたいし知ろうとしていたい、ってだけだなぁと思う。

自分には見えていないけどそこにあるものがあること、想像できなくても何かがあるかもしれないと思っていること。
これは対人支援していたら必要なことだけど、人に関わる誰もが(なので基本的にみんなが)ちょっとずつでも考えられるといいよね。

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