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伸ばし上手な人。

ほめて育てるとか、飴と鞭使い分けて育てるとかあるけど、個人的には、なんか、「育てるためにほめる」みたいな構図が好きではない。
もちろん、叱ったり批判したりばかりより、ほめたり認めたりっていうのがいいと思うけど。

何かのためにほめるというのは、ほんとにほめてるのかわからなくて、ほめられてもその裏の意図を感じるとげんなりしてしまう。
テクニックとしてほめてる感じがわかると、逆にテンション落ちたりする。
こんな風にさせたいという、手段として使ってるだけかなと思ってしまう。

ほめたいから、いいと思ったから、とただシンプルにほめるのが、ほんとにほめられてる感じ。

なので、ほめて育てるという考え方自体は好きだけど、育てるためにほめるノウハウを語る人とかはちょっと苦手だったりした。
育てるためのほめ方を、自分の思うように育てるための手段として、語られているように感じて。
叱ったり不安や恐怖で縛るよりはいいけど、思うようにコントロールしようとするのには変わらない気もして。

だけど、そういう、コントロールしたい感、そのためにほめることでひっぱったり押したりする感じ、が苦手なだけかもと思った。
「育てるため」などの目的があるかどうかはそんなに関係ないのかも。

ただ事実を見ていいと思ったり認めたくれたのだなと思えるようなとき、だからどうしてほしいという圧を感じないとき、ほめて育てたいのかなと思っても素直に受け取りやすい気がするし、がんばりたくなる気がする。

ほめて育てるのがうまいなぁと思う人を見ていたら、基本スタンスが、ただ伝える、ジャッジしない、なのかなぁと思った。
どんな事実があったか、自分がどう思ったか、自分はどうしたいか、どうなれば嬉しいか、みたいなのがベースで、いいか悪いかとか優劣とかジャッジしていないように感じる。
よくないと言うことがなくて、どうしたいかどうしてほしいかだけ言っている気がする。
事実と自分の思ったことをそのまま言うだけで、その裏に意図がないのかなと思う。

そういうスタンスで「ほめる」場合、いいと思った、よくなった、というような、事実や感じたことを伝えるだけで、ほめられて嬉しかったらまた何かがんばるだろう、くらいの感じで、どうがんばってどんな結果が出るかは相手任せなのかも。

コントロールしたい感じがある人がほめる場合、自分の好みに沿うように、どこをほめてほめないか決めていたり、どういう方向がほめられるのかをほのめかしたり、どのようにがんばってどんな結果がほしいか、自分の意図で誘導している。

そこが違うのかなと思う。

コントロールしたさを感じるようなひとは、自分の見たい未来や理想を見ているのではないかと思う。
ただシンプルに事実や感じたことをいう人は、そこにいる人や目の前の結果を見ているように思う。

自分を見てくれる方が受け取れるしがんばれると思うし、任せられている方がのびのびがんばれて伸びやすくなる。


陳腐な言い方だけど、結局はノウハウとかで語れることでなく、あり方の違いなのだろう。
実際どう考えているのかはわからないけど、見ていていいなと思ったので見習いたいなと思う。

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