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わからないという方が話しやすいかもしれない。

まったく話が通じない、通じる気がしない相手だと、話すのは大変だし話す気がなくなってしまう。
でもそれと同じくらい、わかった気になっている、同じことを考えていると思っている相手と話すのも、めんどうだと感じたりする。

わからない、意見が違う、相容れない、って認識している場合の方が、違うっていう前提を共通で持っている分、そこから話がスタートできて楽だと思う。

わかった気になっている、同じって思っている状態から、わかっていない、違うかもしれない、って思ってもらうのは難しい。

わかった気になっているときに、自然に「わかっていないかもしれない」って気づいてもらうのはほぼ無理なのではないかと思う。
わかってる、って思い込みがあると、気づきそうなところでも気づけなくなる。
自然に気づくくらいだったら多分最初から「わかっていないかもしれない」前提でいる気がする。

気づいてもらおうとするのも結構大変だ。
やんわり言ったり遠回しに気づいてもらおうとするくらいで「わかっていないかも」って思ったりしない。
なんなら「わかってないと思う」ってはっきり伝えたところで「そんなことないよ、わかってる」って返ってくるくらい、「わかってない」ことはわからないものだと思う。

そもそも何をもって「わかってる」っていうのかもよくわからないのだけど。
算数みたいな、答えが明確なものについては、答えが違ったらわかってないってはっきりするし、解き方が違ってもわかっていないかもってなるのでわかりやすい。
でも、自分が誰かが考えていることについて、それをわかっているのかどうかってあいまい。
なんなら、わかってもらおうとして伝えている説明などが正しいかどうかもあいまい。

結局は、イメージしているものが同じなのかどうか、相手の反応とかから主観で判断するしかない。
もしくは、自分が「わかってもらった」「伝わった」と感じられるかどうかの感覚的な気分的なもの。

だから、自分が納得できるまで話してみるかどうかってだけなのかもしれない。
そこができないから難しいと思うのかもな。

わかってないだろうと感じているのに「わかっている」って言われてしまうと、それを否定するところからはじまることになるし。
否定されるようなことは好まれないと思うから、やりづらいしめんどうで、いちいちやろうと思えなくなってしまう。
「わかっているかどうか」があいまいなことだから、否定もしづらい。

大枠はあってる気がするけど微妙なずれがあるんだよな、というようなときは、わかっているつもりだろうがほんとにわかっているのだろうがあまり変わらなくて、自分のこだわりでしかないのにわざわざ言ってもしかたないかなって思ったりもする。

でもそういう微妙なニュアンスとかがイメージあってるかどうかって結構大事で、そういうのも含めて「わかってる」認識で話したかったりして、なんかずれてる感じがしたままずれてない前提で話すのはもやっとしてしまう。

わからないならわからないままとして話す方がいいんだけどな。
わからないけどわかってほしいなら、わからないところから話せるんだけどな。
わかってないよね?ってところからわかってもらうように話したらいいのだろうとは思うけどそこまでがんばれないなって思って、でもやっぱりもやっとするのもいやなのでした。

人のことがわかるものだ、人にわかってもらえるものだ、とは思っていないのだけど。
でも、なのか、だから、なのか、わかった気になられることが苦手だと思う。
わかりたいと思う、わかろうとするのは、好きだし嬉しいのだけど。
わかりあえないけどわかりたいと思う、というようにいれるのがいいなと思う。


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