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目の前のひとりひとりが違うということ。
多様性、多様な社会、DEI、などという言葉がたくさん聞かれるようになって、それはほんとにすごくいいことだと思うんだけど。
「多様性を受け入れる」とか「多様性を許容する」って言う人いるじゃん?
それがめちゃくちゃもやっとする。
別に、受け入れてもらわなくても、許容されなくても、そのままその多様って言われる何かをもってそこにいるものなんだけどな?
まったく同じ人なんていなくて、全てがまったく同じ考え方感じ方なんてありえなくて、もともと世界は多様なものなんだけど!
なんで誰かに勝手に「受け入れる」「許容する」とか決められないといけないのか。
なんでそんな上から目線で勝手に決めるのか。
めっちゃ勝手で上から目線っていうことに無自覚そうなのがまたもやっとする。
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極端に言うと、「受け入れる」「許容する」って言う人って、ほんとに「多様」であることを認識していないように思う。
「これは多様なこととして受け入れるものだから受け入れる」
「これはおかしいのではなくてそういう特性だと根拠が示されているから受け入れる」
「受け入れるべきだと社会が(ルールが)要請しているから受け入れる」
みたいな。
だから、その人が「あたりまえ」「普通」と思っていることかは外れている、名もない違いについては受け入れない。
「○○という特性」とカテゴライズされた、その違いをひとくくりでしか捉えない。
そんな感じになってる人もいるように見える。
でも実際は多様ってそんなことじゃなくて、カテゴライズして対応しようとしているものは最低限で(差別的なことなどをなくすレベル)、カテゴライズされないいろんな多様な人がいて考えがあって、カテゴライズされた中でもまったく同じではなくていろんな人いろんな状況いろんな考えがある。
「こういう多様性は受け入れる」と決めた多様性だけを見ているとしたら、それは多様な考えの人がいるという状態ではないと思う。
決められた範囲の多様な人がいるというだけでは多様な組織、多様な社会になっていない。
受け入れると言いつつ、分断していたり極端に区別したりしていては、多様な人がいてもInclusionされてなくてEquityにもなってない。
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そういう、カテゴライズされて受け入れるべきと認識されている多様性だけ対応するような、表面的な多様性でなく、目の前のひとりひとりの多様さをそのまま見ていけるといいと思う。
みんな違う人で、違う特徴があって、考えが違って、それがあたりまえだよね?
違うことはあたりまえで、違ったらおかしいとか同じにするべきとかなくて、「自分とは違うんだな!」っていうそれだけ。
想定できない違いがあるかもしれなくて、違いすぎたり想定外すぎると受け止められないかもしれないけど、そんなに違うんだ、って知ったというだけ。違いに驚くと受け止められない自分を知るだけ。
それが前提で、ほんとみんな違うよね、って違いを楽しんだり生かしあったりできるのが、多様な社会だと思うし、まわりのことからだけでもそうして行きたいなぁと思う。
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