他動詞でなく自動詞で。
「育てる」って言い方が苦手で、何がどうなったら育てられたってことになるんだろう?それは誰がなんの基準で決めるんだ?と思ってしまう。
それは、「育てる」だけでなく、「伸ばす」「気づかせる」とかも同じ。
誰かがどうなるのがよいのかというのを決めるところじゃないじゃん?
どう変化してもしなくても、自由じゃない?
カリキュラムが決まっている学校の授業や講座などにおいて、何ができるようになるべきかと決められている範囲について、どう「育てる」とか「伸ばす」とか「気づかせる」とかが正しいとされるか、というのはわかる。
でもそれだって、カリキュラムとしての正しさや方針なだけで、受けている人にとってほんとにいいかなんてわからない。
何が正しいかなんて誰にもわからない社会のなかで、こんな風になればいいとか判断できると思うなんておこがましいように思う。
*
「育てる」とか「伸ばす」とか「気づかせる」とかって導こうとしている人の正しさやよさが判断基準になっていないか。
価値観の押しつけになっていないか。
導こうとする人の普通だったり、その人のできたことやその人にとっていいことだったり、それはそれで事実なのだろうけの万人向けの話ではない。
誰かの価値観の押しつけでなくても、何か変化があることをよしとしていないか。
何かの刺激やインプットがあれば変化は起こりやすいかもしれないけど、変化があってもなくてもどっちが正しいとかでない。
変わってもいいし、変わらなくてもいい。
変わったように見えなくてもあとから変わることもある。変わったはずが戻ってたり変わってないままだったりもある。
誰かの基準に合わせるものでなく、それぞれの基準でやればいい。
*
自律っていうんだから、自分で決めて動くもので、自分の合うことやりたい方向に、自分で考えて進めばいい、
育てる、でなくて、育つ。
伸ばす、でなくて、伸びる。
気づかせる、でなくて、気づく。
それぞれ自動詞あるんだから、他動詞でなくていいじゃん?
自分で学びたいときが学びになるのと同じで、伸びたいときでないと無理しても伸びないし、自分で気づいてないと気づかせられたことは身につかないと思う。
「育てよう」「伸ばそう」とか「気づかせよう」とか、そんな意図を持って、なんならどういう方向にどんな方法でとかまで意図をもって導こうとするのは、進みやすいけど結局ひとりひとりの力にはなりづらい。
どう育ったり伸びたり気づいたりするか、自分で決めるから身につくのだし、決めなくても何かをやっているうちに身についていくものだからそれでいいじゃん?って思う。
*
ライティング・ライフ・プロジェクト2024年1月期募集準備中です。
お問い合わせなどはこちらからどうぞ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?