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「普通」という枠から出たらいい。

小さい頃から
「普通はこうするから」
「それが普通だから」
とかって言われるのがいやだった。

親とか先生とかまわりの人がいう「普通」が、私にとっての「普通」と違うけどなぁ?と思うことも多かった。
自分の「普通」とは違うのに、その「自分の普通」は普通でないことにされて、「誰かの普通」を「普通」として扱わないといけないのが違和感だった。

それぞれいろんな人が、いろんな場面で都合のよいように「これが普通だ」って言うけど、そのときどきで言ってること違ってたり、矛盾してたりもするじゃん?
「みんなと同じように」って言いつつ、「よそはよそ、うちはうち」って言うのとか。
「普通」っていう型を使って、つっこみや疑問を許されず有無を言わせずにそこに押し込められる気がしてしまう。



「普通は」って言われることの、1番いやなのは、それぞれの「普通」をスルーされることなのだけど、もうひとつのいやなことは、「普通はこうだから」で終わらせられてしまうこと。

ほんとに?
これでもいいんじゃない?
もっといい方法がない?
めんどうじゃない?
どっちでもよくない?

いろんな疑問があっても、「普通こうする」「そういうもの」って感じで、そこから話をすることができない。
「普通だからそれでいい」っていう思考停止にはまってる気がする。

会社とかで、組織内の決まってるプロセスや手順とか暗黙のルールだとかで、その場においての「普通」があることはある。
それは、その場にいるときには従う「普通」だと理解してそこにいるのだから、合わせるものだと思うしそうする。

でもそういう場でも「これが普通だから」って思うとそこから何も発展しなくない?

「普通だから」っていう、そのことについて何も考えずにしたがって、思考停止になっている。
ほんとにそれが普通かな?ほんとにそれでいいのかなって思えれば、そこから改善されたり何かが生み出されたりしていくのに、「普通こうする」「いつもこうしている」って言ってたら、何も変わらない。

みんなで合意している「普通」があっても、それはアップデートしたらいいものだと思うけどなぁ。
決めたっていつでも環境や状況は変わっていくんだし。
プロセスやルールを検討したり決めたりする人たちがいたりするけど、それはそれとして、気になるところがあれば変えたり声を上げていけばいいのに、「普通」こうするものだ、って思ってしまうとそこに進まない。

「普通だから」ってくくったりそこで終わったりしないでいたら、もっといろいろ変わったりよくなったりすると思うんだけどなぁ。
「普通」という枠にとどまらないで話していけるといいのになと思う。

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