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身につけるものが力になる?

最近、出かけるときにお気に入りの服でいて、靴もお気に入りのを履いたりして、やっぱり好きな服と靴だといいなぁと思う。
服はともかく、靴は歩きにくかったり足が痛くなったりするんだけど、それでもいい。

別に普段好きでない服を着ているわけではないけど、ちょこちょこ妥協していることが多い。
歩くなら歩きやすい靴にしようとか、それに合う服にしようとか。
きれいめすぎとかカジュアルすぎだと、場に合わないかもしれないから、無難に中庸にきれいめカジュアルにしておこうとか。
きらいじゃない、どっちかというと好きな服装でいるけど、妥協してる状態だと、微妙にいまいちな自分になってるのだと思う。

見た目の問題でなく、意識の問題。
自分がそのとき1番好きとか、着たかった、履きたかったものではないって自分が知っているから。
何かをちょっと諦めたって自分がわかってるから。

以前これは私のものだ!って思って手に入れた服があって、着たらあたりまえに私に合う、みたいな感じだった。
好きだけど、すごいテンションあがる気分あがるとかでなく、合うし着るし決まってるじゃん、っていう。
行く場所に合うかとか関係なく、着たいから着て好きに着れて違和感なくいられていい。

服とか靴とかアクセサリーとか、想定外に出会ってしまって、価格とかどこで使うとかどうでもよくて買ったものがいくつかあって。
それらはほんとに好きだし私のものとしてなじんでいると思うし、お守りのようでもある。
少しでも好きな自分でいるための。何かに負けずにそこにいるための。

服とかでなくても、お気に入りのものはあってそれはそれで力をもらえるのだけど、見ていやされたり元気になったりするのと違って、服など身につけるものは、身にまとって自分の一部になるような強さがある気がする。

お気に入りの自分らしいものを身につけていられたら、力が得られる気がする、とも思うけど。
一方で、それに頼らずにいたいとも思う。

どんなものを身につけているのかで、気分や意識も変わったりするし、存在感も変わるかもだし、それらが変われば自分への扱いとか見られ方とかも変わるのだと思うけど。
これがないと理想になれないとなったら諸刃の剣だし、そもそも服とか関係なくどういう存在でいるかは自分で決められるはずだし。
自分がある感じの人って、いちいち服とかこだわらなくてもしっかりそこにいる感じだなぁと思うし。

身につけるもので自分をつくっていく、みたいな考え方は好きだしわかる気がする。
力をもらえるというより、それらも含めて自分の形というのが(見た目だけではなくて、何を選ぶかという意味で)しっくりくるように思う。
どう見えるのかとか関係なく好きなの着ていたいとも思うし、結局は好きなの着ていたら自分らしくそこにいれるってことかもしれないと思う。

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