できると信じているから。

人に動いてほしいなら、指示したり誘導したりするよりも、人が動きやすくなるようにできるといいと思う。

動きやすくするのがいい、というのは、自律性とか創造性を発揮するようなことに限らず、なんでも同じように考えたらいい。

たとえば、やり方がわかればできるものについては手順を教えたりマニュアルを提供したりする、っていうことだって、「動きやすくする」ことのひとつだよね?
何を期待しているかによって、どんなことをしたら動きやすくなるかが違うだけ。

人に何かしてほしいとき、できるようになってほしいとき、ちゃんとやってね、できるようになってね、って注意したり指示したりするだけの人と、どういう風にしたらやるだろうか、できるだろうか、って考える人がいる。

その差はなんだろう?って考えたとき、大きく違うのは、その状況に対するスタンスだと思う。

自分が問題に向き合っているかどうか。
問題を解決する気があるかどうか。

前者はその状況をなんとかしたいとは思っていても、自分でなんとかして解決しようとしていない。相手がするかどうかできるかどうかに任せているだけだし、できない原因があるままだったらやろうとしてもできないし。
後者は自分の責任でなんとかする気があるから、結果を人に委ねるのでなく、できていない理由を考えてそれを取り除くようにするのだと思う。
で、それは結果的に、いろんな「動きやすく整える」をすることになる。

人が動きやすいようにしようとするのって、この人は(この人たちは)できるはずだから、その力があるから、って信じているということではないかと思う。
何かできてない理由を解決したら、問題を取り除いたらできるはず、と思うから、しくみや環境や文化などを整えていくのではないか。

そして、そういう、人の力や可能性を信じて、力が伸びていったり可能性が開いていくのを見守っていくようなことが、「教えること」「育てること」のねっこなのではないかなぁと思う。

教えるための手段とか教える内容も必要だけど、それだけにならないように、ねっこのところも忘れずにいたいよね。

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