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傾聴って「傾聴の聞き方」をすることじゃない。

傾聴はいいよね、傾聴は必要だよね、って感じのことは認知されてきていると思うけど、でもその割には傾聴することされることが広まっていない気がしてもやっとする。

傾聴を広めたい、みたいな人の中にも、「傾聴ってこんな風に聞くことだ」って説明する人がよくいるよね?
その、傾聴の聞き方の形を取っていたら傾聴だ、みたいに思っている人も結構いる気がする。

とりあえず傾聴ってことだから、うなずいたり相槌打ったり「わかるわかる」「そうだね」などと言っておくんだよね、みたいな聞き方はほんとどうよ?って思うけど。

そうでなく、ていねいにちゃんと傾聴をしようとしているつもりでもやってないってこと多いと思う。
「ちゃんと」「習ったとおりに」などと、がんばろうとするほど、傾聴になってないってことがある。

そもそも「傾聴」って文字どおり、相手に耳を傾けて聴くことだ。

傾聴するには、うなずいたり相槌打ったり共感を示したり伝え返したりしましょう、みたいに言われたりするけど、それは間違いではないけど正しくもないと思う。

傾聴しているときに、うなずいたり相槌打ったり共感の言葉が出てきたり話を確認しながら聞いたりって動作が出てくることが多い、っていう話であって、それらの動作をしていたら傾聴してるってわけじゃないじゃん?
別にそんな動作はなくても、すごく聴いてもらえてるって思えるときもある。

どんな聞き方をするかっていう型でなく、聴きたい気持ちの方が大事だと思う。

ちゃんと傾聴をしよう!、って思っている人で、「ちゃんとしよう」として、「自分が適切に相槌を打てているか」「ときどきまとめたり伝え返したりできているか」「共感を示したりしているか」などを気にして聞く人がいる。

そういうときって、すごく気にして聞いているようで、気にしているのは相手じゃなくて自分なんだよね。
自分がちゃんとできているか、自分がどんな風に出来ているか、そういうところに意識がいっている。
話を聞きながらも、どう返すのがいいのか、とかを考えたりしている。

それは、すごく真剣に聞いてはいても、相手のことに集中して聴いているのとは違うのだ。
相手に耳を傾けてなくない?
相手の言葉を聞いての自分の言葉を気にしてない?

ちゃんとこんなときにこんな風に返すべきだっていうのに従っているとか、うまく返そうとしているとか、そういうのは話している人に伝わってしまう。

だから、相手に耳を傾けるなら、ちゃんと聞くようにがんばるのでなくて、ただ相手に集中して聞くことだと思う。
集中して聞いてたら、自然にうなずいたり確認してみたりもっと聞きたくなって深掘りしてみたりと出てくるんじゃない?

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